Chapter 2
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ファウストゥス暦423年、マルティウスの月の第19日――燦然と降り注ぐ眩いばかりの陽光に艶めいた斜陽の翳りが雑ざり始める時刻。
帝都が見下ろす平地に展開するのは整然たる濃紺。帝都を望む小さな街の堅牢な城門を背に展開するのもまた同じ色。
対峙する濃紺のその一方を率いる老将は、高く高く澄み切っている蒼穹に黄昏の冷ややかさを感じ取る。
「要するに、そういうことか」
帝都近郊――ノヴァーラ。街並みを護る石壁の上、ぬるい風にその身を遊ばせながら、相対する濃紺の背に庇われるように聳え立つ白亜の帝都をヴァルター・ヘルツォークは苦々しげに見遣った。
「陛下のご許可は?」
帝都第三層――近衛長官執務室。一枚の書状を手に、その身に纏う厳然さを崩すことなく近衛軍長官ロバート・ベルナールが問いを投げる。
「尾を振る相手を間違えないことだ、ベルナール」
組んだ手を膝において悠然と椅子に座るアクィーノ侯ヴァレリーアスが鷹揚に笑んだ。
侯爵から眼を逸らさずに立つベルナールと己の指に眼を遣っているヴァレリーアス。戦場においては紅と濃紺を纏うのであろうそのふたりの眼が交差することはない。
ベルナールの蒼に呆れに似た色が過ぎる。
「勘違いしないでいただきたい。近衛が服するべきは陛下の勅命のみ。受諾を拒むのは貴殿の命であるからだけではありません。たとえそれがラヴェンナ・ヴィットーリオ・エマヌエーレ私人の命であったとしても同じこと」
この上もなく愉快そうに、ヴァレリーアスの喉が鳴った。
「随分と酷薄なものだ。もしあの小娘が玉座から引き摺り下ろされれば、もはやその声など耳に入れぬか」
わずかに眼が持ち上がるベルナールと、ゆったりと腰を浮かせるヴァレリーアス。深くなる笑みとともに侯爵はベルナールが手にした書状に眼を遣る。
「援護しろなどと贅沢は言うまい」
そして、受容されるのが当然とそれ以外の可能性など存在しないことを確信している響きをもって、ベルナールを正面から見据えた。
「動くなよ。後背から叩かれたらたまらん」
「それが陛下のご意思なれば」
近衛を率いる者の目礼に、侯爵はかすかな冷笑を浮かべて見せる。
世を満たすのは燦然とした陽光と黄昏の静謐が綯い交ぜとなった艶やかな翳り。
アクィーノ侯が退室してさほど間を置くことなく、ベルナールの執務室をひとりの男が訪れる。
「お呼びでしょうか」
紅を纏うやわらかな物腰の金縁眼鏡の男――近衛軍帝都駐留部隊隊長ヨハン・ラングミュラー。
「すまない、無駄足をさせてしまった」
窓を前に外を眺めていたベルナールがゆったりと身体を反転させ、穏やかな苦笑を零した。
「それは・・・」
ベルナールが手にしているもの。ラングミュラーからは紙に染みこんだ鏡面となる――それでもそれが何であるのかを判別するには充分であるほどに決定的な、見紛うことのない――名を記した筆跡とそれを透かす御璽しか目にすることはできないが、その図形が捺されている紙片が何であるのかを間違える者はいない。
部下の目に閃いた緊張を見て取ったベルナールはほんのわずかな時間だけ押し黙り、
「気にするな、ただの牽制だ」
場を取り直すような笑みをつくり上げ、アクィーノ侯によって届けられた、手にした書状を握り潰した。
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