Chapter 2


 そのひとについて覚えていることはさほど多くない。
 なにしろ子どもの時分であったし、それに、実際に会ったのは数えるほどで、僕自身が発言を許されるといった意味での言葉を交わしたことは一度もなかった。
 そのひとはいつも片手で頬杖をつきながら机上の書見台の分厚い古文書を捲る。眼鏡越しに文字を追う蒼の目は、鋭利な舌鋒を隠すというよりは、犀利な内面を馴染ませたどこか緊迫感を秘めた温厚さを湛えていた。
 黒めいた焦茶の窓の格子、白くぼやける陽光。穏やかな静寂に羊皮紙の擦れる音だけが交じる。
 そのひとの傍らにはひとりの少年。眼鏡をかけた灰色の髪の男と利発で気の強そうな少年の組み合わせは父子のように見えなくもない。もっとも、男はこの館の主の客人で、この館の主とは少年の母であるから、実際の関係はそれとさほど遠くもないのかもしれなかった。
 まぁ、でも、そんなことは僕にはどうでもいいことで。
 雨風を凌げる屋根と、餓えないばかりかそれなりに味わえる食事。少年という主と、主を利する為ならば身につけることが許される技能と知識。
 それらが、所有の印を灼きつけられるのと引き換えに僕が手に入れたもの。
 他人にはどう見えていたのかは知らないけれど、捨てられれば野垂死ぬだけだと自覚していたあの頃の僕は身につけられるものなら何でも身につけようと決めていて、だからこそ目の前に並べられるすべてのものに節操無しに手を伸ばした。この身以外に何も持たない僕はこの身を立てることのできる何かを身につけるしかなくて、脅迫観念にも似たその意識に派生する必死さが熱心さと受け取られていたとしたら、それはそれで放置しておいて損をするものでもない。ともあれ、その意味において僕とそのひととの出会いは劇的で、そのひとが少年に与えると同じものを会得することを許された僕は、それこそ灼熱の砂漠を彷徨い続けた末にやっとのことで見つけた泉の水を呑み干すように、目の前に並べられていくものを握り締めた。
 あの頃の僕はそのひとの名前など知らなくて、勿論、そのひとがどんな肩書きを得ていてどんな立場に在るのかも知らなかった。あの館が街ごと焼失した後に僕を拾って育ててくれた傭兵たちから聞いた話の中で語られたそのひとは、僕の知る静けさと文献に埋もれていればそれだけで満足しているように見えたそのひととはどこかずれていたけれど、愉しみと願望と好奇心とが織りこまれて広がってゆく噂というものはそういったものなのかもしれない。
 あの館から前触れも無く突然に姿を消したそのひとは、名をトーマス・ワーディングといった。

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