Chapter 1
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果ての知れない、茫漠とした、高く高い蒼穹。白というよりは風化し霞んだ色合いの石によって形成される背の高い建造物が隙間なく左右に立ち並ぶ石畳の隘路。夏であればきらきらしい緑に、秋であれば黄や紅に色づくのであろう今は芯だけの乾いた蔦が飾るのは、黒々しい鉄柵のついた窓。道を挟んだ窓と窓との柵に結び付けられた紐が空に網の目を描き、それらに干された洗濯物が冬と春の狭間に吹き荒ぶ鋭利な風に翻った。やわらかな陽光に曝されてはためくそれらは、例外なく目に眩しい。
大陸の三分の二をその版図に収める史上空前の大帝国――シュタウフェン帝国。その東部に位置する南北を峻厳たる山に挟まれた天然の要塞こそが、大陸交易中継の拠点としての栄える、帝都ティエル。大陸に名を馳せる白亜の城塞都市にて市が開かれ洗濯物がはためき喧騒が渦巻くのは、七層から成る帝都の第一層――最も大地に根差し、あらゆる者に門戸を開く、開放感と無秩序とが混交する場所だった。
空を切り取る建造物の間の石畳を不安定に荷馬車が通りぬけ、その度に周囲で遊んでいる子どもたちがはしゃぎ声を上げながら道の両脇に散る。露店の客引きと痴話喧嘩とが崩壊した建物や城壁を修復する工具の音とが綯い交ぜになった船酔いでもしてしまいそうな大きくゆるいうねりが、隘路を駆け抜ける風にさらわれて上昇し、蒼穹に散じていった。
「――――では、隣のおばさんによろしく。風邪をひいたりしないように。来月には仕事も一段落着きそうだから、必ず家に顔を出す。それまでどうか元気で」
ひとりの男が誰かに伝えたい言葉を口にする。その声音は文字となって紙に刻まれ、手紙となって男の家族に届けられるのだろう。その証明に、道に面して並ぶ家々のひとつ玄関扉の前、扉と道との高低差を埋める段に腰掛けた青年が、その辺で拾ったらしい木板を膝に置いて台にし、光景を描き留めるかのように男の言葉を書き留めていた。
「はい、できたよ」
と、青年は傍らに座る男に完成した手紙を差し出す。それを恭しく受け取った男は、何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みを浮かべて青年に硬貨を手渡した。その終結からまだ一月も経っていない戦いによって破壊された城壁の修理のために帝都に出てきたというその男は、これから――基本的には商業文書や通達文などを運んでいる――故郷へと向かう郵便馬車に走ってその手紙を託し、手紙を受け取った男の家族は身近な誰かにそれを読み上げてもらうのだろう。
どうも、と、薄い笑みをつくる青年の周囲に、青年が仕事を終えるのを待っていたのか、よくこの辺りで遊んでいる子どもたちが集まり始めた。それによって立ち上がってその場を立ち去りかけていた男は、道を失って、再び同じ場所に腰を下ろすことになる。
子どもたちのひとりが差し出した紙切れを受け取った青年は、その表面を一瞥し、露骨に眉をひそめた。遠目には長方形がいくつか並んでいるように見える細かな文字の羅列が印刷された紙切れを映す青年の深い緑色の目に、億劫そうな色が隠しようのないほどに明瞭に浮かぶ。
「なんて書いてあるの?」
「それ読んでたおじさん、真っ青になったと思ったら、急に真っ赤になって怒り出したの」
子どもたちは各々に首を傾げ、その大きな蒼の目は好奇心できらきらしている。青年がふと横を見遣ると、そこでは子どもたちと同じように目を輝かせて男が青年を見ていた。
青年は瞼を落とし、指で眉間の凝りをほぐしながら、溜息をつく。
子どもたちが拾ってきた紙切れは新聞の一頁であり、それにはちょっとした出来事が大仰に綴られていた。
「いや、大仰でもないか」
再度の溜息と共に吐き出された言葉に、青年を囲むひとびとが反応する。好奇心に身を乗り出す彼らに結果として詰め寄られるかたちになった青年の視界に街並みとは異質なそれがちらついたその時――――。
地を震わせるような硬質な振動が大気を切り裂いて、どこか階調の異なるそれらが幾重にも重なって増幅し打ち消し合い、まるで驟雨のごとく鼓膜を叩きのめし地に降り注いだ。
帝都の三層と四層を跨ぐように存在する聖テルム大聖堂の、時告げの鐘が鳴り響く。
「急がないと、そろそろ馬車が出るんじゃないかな」
手紙、届くの遅れるよ。と、青年は男に助言をして、
「ほら、お母さんが呼んでる」
ひとりの子どもの肩に手をかけ、その後方を指差した。
単純にして複雑に絡み合う音階が時を奏で、たった今誕生した響きと残響とが生み出す音律に鳩が飛び立つ。晴れ渡った蒼穹を泳ぐ彼らに白んだ陽光が降り注ぎ、その煌きは閃光となって蒼穹を駆けていった。
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