Chapter 3
ヘッセン・ダルムシュタットの、聖レイエス教会の箱と呼ばれていた大司教邸の中庭。その大樹の根元、そこに置かれている長椅子に仰向けになって横になって空に向かって腕を伸ばしている君を見つけて、中庭を囲むように走っている回廊を歩んでいたぼくは思わず足を止めた。
そこは君のお気に入りの場所。下から見上げることができるのは陽に透けて幾重にも重なる樹の葉の隙間。それは白んだ陽光を地上に通す風に揺らぐ不安定な道筋。そしてそれは、地上から垣間見る、小さな蒼穹。
皇帝エドゥアルドによる昨年のブランデンブルク辺境伯領侵攻は私たちの師の心に憂いをもたらした。伯爵がカドベリー・カースル族と結び造反を企てたというのがその理由であり、その結果、帝国に弓曳く者として伯爵は処刑された。
皇帝も伯爵も師のフィツジェラルド大学教授時代の教え子であったことは知っている。また、そのふたりが君の父と母であるということも――公然の秘密、ではあるけれど――ぼくは知っている。
そして。
「どうしたの? そんな表情して」
そうやって腕を伸ばしたまま長椅子に仰向けになっている君が、いつも何かを見据えているということにも、ぼくはなんとなく気づいている。
きっと、それは目標とか野望とか、そういった類のものではなくて。
「君こそ何してるんだい?」
長椅子の背凭れに腕を載せて君の顔を覗きこむぼくの耳に、
「掴もうとしているの」
という、空に向けて伸ばした腕の先を見つめる君の声が届いた。その手の際は陽光に透けていて、気まぐれに揺れ踊る緑陰がその透明度を奪う。
「何を?」
ぼくは思わず身を乗り出す。君の纏う喪服の黒は夏に落ちる影よりも濃い。
「そうね。強いて言うなれば、願望を」
「願望? どんな?」
「願い望むというそのこと自体を」
風が吹く。葉と葉の隙間の蒼穹が不安定にちらつく。
あぁ、やっぱりそうか、と、なぜか、君のその言葉がすんなりと腑に落ちた。
君の目は広くを見渡すことができて。
君の目は深くを見透かすことができて。
君の目は総てを理解してしまうから。
「猊下の他界は、病のせいじゃ、ない?」
あえて誰にも問わなかったことを口走る。自分の身を包む喪服の黒が視界の隅にちらつく。腕を下ろした君は空を見上げたまま数度その目を瞬き、ゆっくりと瞼を落とした。それは静かな肯定。
「傀儡は本当に傀儡でしかなくて、その操り手は傀儡の役目を完全に勘違いした。一連の出来事は、ただそれだけのこと」
葉擦れに溶けるのは硬質で澄んだまろやかな声。
君の目は広くを見渡すことができて。
君の目は深くを見透かすことができて。
君の目は遠くを眺めてしまうから。
「それだけの、こと?」
ぼくは、君の目を塞いでしまおうかとすら考える。
まったく、君はどこまで自分のことに鈍感で無頓着なのだろうか。
そんな、抑揚のない、不安定な声をして。
「君はもっと無責任になっていい。沢山のことを意味もなく願って、無駄に色々望めばいいんだ。絶対を確信できない将来についての口約束をあちこちにばらまけばいい。そして、それと同じくらい、思ったことを口にして、散々周囲に当り散らせばいいんだ」
あまりにも色々と見えすぎて、ささやかな願いごとをすることすらできないほどに――自分の感情がどのようなものであるのかを理解できないほどに――不器用なくせに。
驚いたのか、きょとんとしている君は幼子のような無防備さでこちらを見上げてくる。
君の哀しむ顔など見たくはないから。
「そうすれば、ひとつくらいは、現実になる」
君の望むことは、君の願うことは。
「そうすれば、ひとつくらいは、自分が何を望んでいるのかが判るようになる」
できることならば、すべてが叶ってほしいのに。
どうして君は。
やわらかな緑陰が風に踊る。
「虚飾でいいから、ごまかしでいいから」
そんなにも。
「頼むから」
救いようのないほどに、
「何かを望んで何かを願ってくれないかな」
愚かなのだろうね。
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