Chapter 1


 白に緋が広がる。
 大理石の淡い白を粘性のある緋色の液体が侵蝕してゆく。
 ばらばらと、細かい何かが高いところから打ちつけられるような音が空気を震わせる。
 高い天井。ゆらめく橙の灯火。白で埋め尽くされた謁見の間のその最奥、床から数段高いところにある紅色の革が張られた玉座に悠然と腰かけていた、しなやかな肢体を簡素な黒のドレスで包んだ女が立ち上がる。
 こつり、と、硬い音がした。
 長い睫毛に縁取られた甘いつくりの蒼の目には何かを愉しんでいるような色があり、紅の刷かれた小振りな唇は笑みのかたちにゆるく弧を描いている。
ゆっくりと女は段を下りる。女が足を一歩踏み出すごとに、こつり、こつりと場違いなほどに軽やかな靴音が響く。
 女が段を下りきった。そこにはひとりの近衛兵が立っている。玉座に背を向けるように立っているその近衛兵は抜き身の剣を持っていた。無造作に持たれている剣は血に濡れていて、近衛兵の足許には血塗れの人間が仰向けに転がっていた。それは、髭も髪も真っ白な、小太りであり小柄な老人。老人の右肩から左の脇腹にかけて走っている傷は、一瞬前に近衛兵がつけたものだ。
 近衛兵の脇を通り過ぎようとした女は、それを阻止しようとした近衛兵に悪戯を企んでいる子どものような笑みをみせて牽制する。そして女は床に転がっている老人の傍らに落ちていた短剣を拾い上げ、床の血溜まりに片膝をついた。
 ばらばらと音がする。大きな水のしずくが、空の高いところから地上へと勢いよく降り注ぐ。間断なく響く、降下した地面の土を飛び散らせるほどの勢いを持った無数の雨粒の音。
 女は床についていない方の膝を血塗れの老人の腹部にのせ、体重をかけた。小さな呻き声が聞こえる。荒い呼吸音。傷口は閉じることなく出血を続けている。女は、先ほど拾った、老人が隠し持っていて目的を果たすことができなかった短剣を両手で逆手に持ち、切っ先を老人の仰け反っている喉に置く。そして身をかがめ、老人の耳もとで囁いた。

「聞こえているかしら、キャンティロン卿」

 薄く開かれた老人の目は焦点が合っていない。痙攣が始まりかけている老人の肉体を、女は自分の体重をかけることで押さえつける。女の硬質で短い緑髪が重力に従って下方に散る。
 ゆるく、女が笑んだ。清らかな、しかしどこか妖艶な微笑。
 ばらばらと音がする。すべてを押し潰すような雨音が響き渡る。
 あたたかでやわらかな蝋燭の不安定な炎に艶めく女の唇がかすかに持ち上がり、吐息とともに言葉を紡ぎ出した。その声はとても透明でとても小さく、女に耳もとで囁かれている事切れかけた老人にすら聞こえていなかったかもしれない。

「焦ることなどなかったのに。おそらく、いずれ私は貴方が望んだとおりに命を落とすことになる。でも、それは今じゃない」

 女はこれ以上もなく優しく微笑む。

「貴方はただ時を待っているだけでよかった。忠臣と誉れ高い貴方をこの手で殺めなければならないなんて、残念だわ」

 本当に、残念。
 女の朱唇が、ゆるく、弧を描く。
 奇妙な圧迫感を伴って、ゆるやかに包囲網を完成させるがごとく、耳障りな雨音が響き渡った。
 老人の目から意志の光が消えた。老人のものであったはずの短剣が、老人の喉を横薙ぎにして、そのすぐ傍の床に転がっている。
 老人の耳もとから朱唇が離れた。ゆっくりと、女は返り血に濡れた上体を起こし、立ち上がって老人を見下す。その蒼の目には酷薄なまでの怜悧さと灼きつくほどの冷ややかさが同居している。
 女帝ラヴェンナ。
 ラヴェンナ・ヴィットーリオ・エマヌエーレ。
 血塗られた女帝と呼ばれ、後に賢帝にして愚帝という奇妙な評価を獲得することになる今しがた命を狙われたばかりの紅の玉座の主は、微笑みとも嘲りともつかない薄い哂いを浮かべながら、皇宮に容赦なく打ちつけられてくる雨の音を聴いていた。

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