水の影 一流とレン |
梅雨が明けて1週間と、じめじめした暑さが鬱陶しい初夏の兆し。 淡い色の空には翳った分厚い雲が点々と並び立ち、コンクリートの校舎には濃い影を作っていた。 校舎の屋上の、今は使われていない貯水タンクの傍に俺とそいつは座り込んでおり、いつもの他の面子は急遽呼び出しや用事や、それに付き添ったりして席を外している。辺りには食べかけの昼食がハンカチの中にくるまれて置かれていた。 得体の知れない留学生。俺と相性は最悪のフロウドと二人きりなど、言葉にするだけでもおぞましいが、藍に着いて行こうとすれば暗に目線で「必要ない」と言われてしまい、大人しくその場に留まってしまった。 横にいるフロウドも、皆ぞろぞろと屋上を後にする様子を見て何か言いたそうだったが、動かない俺に一瞥くれるとため息を吐いて手元の文庫本へと視線を戻した。いつもはあいつらのことなど待たず、さっさと教室に戻りそうなものだが、わざわざ食べかけの昼食を包み直して移動するのも億劫だったのだろう。壁に寄り掛かる姿はいつにも増してだるそうだった。 購買で購入した総菜パンを無言で食していると、不意に「朝義」と名前を呼ばれた。 この場に自分の名を呼ぶ人物は一人しかいない。チビとかクズとかではなく、珍しく名称だった。 「…何だよ」 「影の落ちない場所に影を作るとしたら、お前はどうする」 「はぁ?何だよ藪から棒に」 「しかも動く」 「だから何なんだよ!」 くわりと噛みついてやろうとフロウドの方を向くと、フロウドはじっと前を見据えたまま、無表情のまま身じろがない(不機嫌に顔を顰めるのもこいつの希薄な感情表現の一つだと気付いたのはつい最近だ)。 「しかもそれは空に浮かぶ雲が作る影ではない。勿論、鳥などの飛行物体のものでもない。影自体が生きているようにも思えて来るな。人が歩いているようにも見える」 「……」 本当に何なんだ、こいつは。 珍しく長い台詞を言ったかと思えば、俺には到底察することのできない内容だったのだ。 「…ああん?影がなんだって?」 「…察しろ馬鹿め。いや馬鹿なのは前々から知っていたが、まさかここまでとは思うまい。いや俺が浅はかだったな、すまなかったな単細胞」 「俺が頭良くないのは事実だけどな!お前適当に小難しいこと言って俺を馬鹿にして罵倒したいだけか!?」 「そんな時間の無駄遣いはしない」 「ぐあああああっ!!」 「喧しい。ちょっと静かにして、あれを見ろ」 「それが言いたいなら最初に言え!…よ…」 ついっと差された指につられてその方向を見れば、俺の声も尻すぼみに消えていく。 影と女が揺らめいていた。 雨も降っていないに関わらずその女はずぶ濡れで、胸のあたりまである黒髪からは水滴が滴っていた。この学校の制服である白いブラウスとスカートで、細かい傷が沢山ついた素足をコンクリートの地面に晒していた。 思わず、絶句する、俺。 そうだ、あれは、どう見ても。 しかしここまではっきりと目に映すのは数年ぶりであり、本能的な恐怖が腹の底から滲み出た。 「あの影、なんだと思う?」 「か、影!?そんな悠長なこと言ってる場合じゃねぇって!」 涼しい声のフロウドに、みっともなく震えた俺の悲鳴が重なる。 「何のことだ、あれが何かわかるのか?」 「わかるも何もやべぇって!あれはやばい!ありゃどう見ても――…」 待てよ、と、言葉尻を濁す。 「…お前、そこにいる女見えるか?」 「女?」 やつは訝しげに首を傾げる。屋上を見渡して、「何言ってんだこいつ」という目を向ける。 やっぱり、フロウドには女の姿は見えていないのだ。けれど、その影は見える。 食い入るように影を凝視するフロウドは、独りでに動き回る影が興味深いようで、女がふらつきながらこちらに一歩進む度に視線が合わせて移動する。 あの『幽霊』の女には、こちらが反応していることがばれていた。 「…まさか、何かいるのか?」 「…お前こそ察しろよそこはよぉ…!何かって、お前には目に見えないもんが、俺には見えるもんがそこにいるよ。びしょ濡れの女だよ」 「ならば、あの影はその女のものか」 「そうだよ」 ゆうれい。 小さくフロウドの唇が動く。 こいつは多分、そういう非現実的なものを信じていない。雪白と同じで、頭ごなしに否定するタイプだ。 ホラー映画は馬鹿にしながら観るし薄暗い不気味な校舎も病院もなんのその。 しかし事実、ああいうのは時々見るし気配も感じる時がある。 「おいチビ」 「な、何だよ」 「そこにいるのは、危険なものなのか?」 「危険もなにもねぇよ。捕まえられたら憑りつかれるか、それとも連れていかれるか、そこまではわかんねぇけどな」 「目に見えないものは信じない主義だが、まぁ世の中にはメイドの皮を被った戦闘機や化物並の執事がいるからな、説明のつかない現象は他にもあるわけだし…そういうものを一概にいない存在として扱うのも、本当は人間の尊厳を「今はそんなことどうでもいいんだよ!!」 思わず怒鳴りつけてやると、フロウドは目つきを鋭くしてこちらを睨んできた。 「さっきからうるさいぞ。目に見えないものがそんなに恐ろしいか」 「得体がしれないからおっかねぇんだろ!!お前には見えてないかもしれねぇが、俺にはくっきりはっきりと女のすがたが…!」 ―――どん ―――ひたり ―――どん ―――ひたり… 「え――…」 足音が、近づいて来る。水が滴り、それを踏みつけ、近づいて来る。 ドラム缶を叩いたような鈍い音は背後から。背後にある、貯水タンクの内側からだった。 音の正体がわかると、俺はぶわりと全身の毛が逆立つような悪寒に襲われた。嫌な想像が脳裏を巡る。まさか、まさか、まさか。 金縛りにあったように指一本も動かせない俺の横で、フロウドも何かを感じたようでぴんと張りつめたような空気を纏っていた。怯えや恐れよりも、物陰に潜む敵を警戒しているような、そのような素振りだった。 「…影が」 女の影しか見えていないフロウドは、その上の何かを捉えようと目を細めて睨んだが諦めたようで、影の観察に集中していた。 背後からの音はどんどん大きくなっている。濁った汚水の臭いが、辺りに充満している。 最悪だ。 思わず呟くと、それが合図だったかのように、弾かれたようにフロウドが立ち上がる。放置していた食べかけの俺の総菜パンを掴んで振りかぶった。 俺の昼飯!いやそんなぶり攻撃でいいのか!? 制止などできぬ刹那の合間、ほぼ直線の軌道に乗せて放たれた総菜パンは女の胸のあたりにべちゃりと嫌な音を立ててぶつかった。 「あっ」 「当たったか」 きっとフロウドにはパンと具材が透明な壁に当たって潰れたように見えるのだろう。空中で受け止められたようにも見えるそれに、驚いて目を見開いた。 胸元に激突して地面に落ちたそれを、女は忌々しそうに認めて踏みつけた。だめだこりゃ。 そして、この世の恨み辛みをごった煮にして混ぜ返したような虚ろな黒い眼孔と目が合った瞬間、頭上と背後から降りかかった水圧に何もかも呑みこまれた。 水面の見えない水の中をもがいているようだった。 光も見えない、暗い場所だった。 苦しくて息ができない。どこかに縋りつこうとした手は誰かに蹴り落とされ、浮かぼうとする頭は踏みつけられてさらに深くへ沈み込んでいった。 「一流くん!!」 鋭く名前を呼ばれて目が覚めた。横倒しになった体をがばりと起こして咳き込む。 「げほ…っは…!な、何…!」 「何じゃないよ!帰ってきたら2人してびしょ濡れで倒れてるし、お弁当も水浸しだし…どういうことなの!?」 声の主を振り返れば、藍が泣き出しそうな剣幕で叫んだ。 「あ…」 生きてる。あの息苦しさも嫌な気配もない。独特の腐臭の混じった臭いもない。 少し離れたところに同じように咳き込む細い背中が見えた。 「夢じゃ…ねぇな…」 「ちょっと聞いてるの一流くん!心配したんだからね!?一体何があったの!?」 「うあ、ちょっと待て藍」 胸倉を掴まれて揺さぶられ、謎の倦怠感と脱力感にへとへとの体には幾分応えた。 ふらつく頭でどこから説明しようかと決めあぐねていると、フロウドが声をかけて来るシルフィーや雪白を無視して貯水タンクを見上げていた。顔面は蒼白で俺と同じく全身水に濡れていた。 そんなフロウドの目線の先の貯水タンクを追うと、ちょうどそこに、内側から叩いたような歪みが生じていた。 それを見た雪白が顏を顰め、平野はこの現状を把握したように真っ青になった。 「ちょっと昔の出来事よ。昔、同じような時期に屋上にある貯水タンクに女子生徒が落ちてそのまま溺死した事件があったわ。けれど真相は、付き合っていた男子生徒とのトラブルの末、女子生徒は男子生徒に乱暴をされて、最終的には証拠を隠滅するように虫の息の彼女を貯水タンクに落として蓋をした…。その約半年後に、水道の水に髪の毛が混じるっていうんでタンクを調べたら、行方不明になっていた女子生徒の遺体が発見された。貯水タンクはすぐに封鎖され、その後男子生徒は捕まったけどその一月後少年院で謎の窒息死を遂げた。メディアは女子生徒の呪いだ怨念だ騒ぎ立てたけど、定かじゃないわ。時が経つにつれ事件も忘れ去られていった…それがこの貯水タンクに纏わる話の顛末よ」 翌日、雪白から語られた事実は悍ましく、しかし何となく想像した通りの内容だった。 俺とフロウドは昨日のうちに身に起きた出来事を話していたので、怪異談はより一層生々しく回想される。 「一生に一度あるかないかの体験をしたな」 「馬鹿ねあんた!」 呑気に呟いたフロウドに雪白が怒鳴り散らした。本当馬鹿だ。あんな体験俺は一生味合わないままでいたかったものだが、フロウドにとっては恐ろしくも興味の範囲に留まってしまったらしい。本当馬鹿だ。 しかし一つ、妙だと思う点がある。 俺たちは確かにタンクの水を被って、息苦しい思いをして全身ずぶ濡れになって倒れていたわけだが、あの水圧ほどの水は、一体どこから溢れ出たのだろうか。 貯水タンクは今はもう枯れている。 水一滴すら溜まっていない。 封鎖されてから一度も蓋を開けられていないからだ。 あの水は一体どこから来たんだろうな、と同じ体験をしたフロウドに問えば、「あくまで、フィクションを読みふけった経験則と想像でしかないが」と珍しく素直に答えてくれた。 「後から調べたのだが、あのタンクはあの頃のまま修理もされず野ざらしにされていたんだろう。数か所、中を覗けるような指の太さ程度の穴が無数に開いていた。これもただの推測の域に過ぎないのだが、男子生徒は殺した女子生徒が怖かったのではないだろうか。だから女子生徒をタンクに落として蓋をした後も、穴を開けて中を覗いて死んでいるか確認した…。ちょうど先日まで雨が降る日が続いていたから、穴から水が侵入し、水という力を得て女子生徒はまた怨念となって現れた。雪白が最後に言ったように、忘れられた悲しみかそれとも憎悪か、それとも忘れて欲しくなくて再び現れたのか……何故お前と俺の前に現れたのかは、俺にはわからないがな」 「……なんかしたっけ?」 「総菜パンなら投げつけたが」 「それはたぶん関係ない」 「ふん、過ぎたことだ、もういいだろう。全貌を全部ひっくり返して、恨みを買った男子生徒のようになりたいのか?」 「…いや、」 俺は、この時期には思い入れがある。 梅雨は、藍に出会った時期だ。 出会って、色々あって、関係を結ぶことになった今でも鮮明に思い出される。 しかし、その女子生徒にとっては裏切られ殺された時期になる。 ただの妬みだったのだろうか。それとも、ただ本当に忘れ去られたくなくて存在を主張したかっただけなのか。 それを確かめる術は、もうないのだけど。 梅雨が明け、からりと爽やかに晴れた青い空が広がる窓の外を眺めた。 END - - - - - - - - - - 著:月代 |