Aphorism Paranoia
01


これは夢だ。俺はそう思い込みたかった。
俺の目の前のこいつは、確かに本物だ。顔の造形も、黒髪も、肌の色も、外見だけは確かに。
しかし拭えない違和感。というか、こいつは最近一切この顔をしなくなったはずだ。本人は幸せだと言った。俺もと言った。過去の様々を乗り越え、鴻季や雪白や、平野や坂城や、留学生の2人がいるこの日常を愛してやまない彼女は、いつも幸せそうに笑える奴になった。ちゃんと、素直に笑えるようになった。筈なのに。何か、やらかしたっけ。嫌がることを、彼女が悲しむことを。不良を辞めて、喧嘩も一切しなくなった。そう努めた。大好きな彼女の、悲しむ顔。見たくなくて、笑顔でいて欲しくて。それなのに。
「…あ」
目の前でボロボロ涙を流す藍は俺に怯えた目を向けていて、でもそれは俺を映していない。藍の頬には殴られた跡があって、昼間だってのに学校の喧騒から離れたここは体育館の裏。授業サボるには格好の場所で、人を痛めつけるにも都合のいい場所である。
…痛めつける?誰が?誰を?
背筋が冷えて、嫌な汗がこめかみを伝った。
「…な、なぁ、藍…?」
「ひっ」
俺が彼女の名前を呼ぶと、今度は驚きと困惑に満ちた目で俺を見た。
「…ど、どうして、私の名前…知ってるの…?」
「どうしてって…当たり前だろ!俺たちは…っ」
そこで俺は軽薄な口を閉じた。
どうして私の名前を知ってるの?
藍の台詞を反芻し、粗食し、理解する。理解、してしまった。
「…お前…俺の名前知ってる?」
藍は少しだけ眉を潜めて、遠慮がちに、申し訳なさそうに「ごめんなさい…しら…ない」と言った。
そう、藍は俺のことを知らない。
「…はは」
無意識に乾いた笑い声が溢れた。一体なんだってんだ、記憶喪失か?それとも俺は俺じゃないのか?しかし窓ガラスに映る俺は確かに俺だ。しょっちゅう増える顔面の絆創膏がない以外は。
制服は夏服だ。…今は夏なのか?そういえばじめじめして暑い。さっきまで、俺はマフラーとコートを着用した冬の寒さ対策万全の格好だった筈なのに。訳がわからん。意味がわからん。幸いにも人を殴ったあとの独特の拳の痛みはない。藍を殴ったのは俺じゃない。そのことだけは今の俺の唯一の救いだった。
「…もう一回訊くけどさ、」
振り絞った声は掠れて震えていた。
「俺のこと…ホントに知らないのか?」
無情に、藍は何の思惑もなく首を縦に振った。
「知らない」
そう言った。

一応藍を保健室に送り届けて教室前の廊下をとぼとぼと歩いていると、背後から声を掛けられた。
「朝義?」
と、奴は俺のことを知っていた。振り返るとそこには眼鏡のソイツがいた。ただし違和感の塊だが。
「さ、かじょ」
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
そりゃあそうだろう。大好きな彼女から存在を忘れられたのだ。ショックじゃない訳がない。顔面蒼白だ。
…ん?しかしなんだこの坂城。やけに馴れ馴れしいというか…優しい?いやないな気持ち悪い。
悶々と考え込んでいたら坂城は近寄って来て俺の額に掌を押しつけた。
一瞬思考が停止する。
「っ」
「…熱はないみたいだが、具合でも悪いのか?今日は暑いからな、水分は…」
「き、気色わりぃことしてんじゃねええぇぇぇよおおおぉぉぉぉっ!!」
「あ、朝義!?」
その手を振り払って絶叫しながら俺は全速力で逃げ出した。
後ろから「朝義!?」と俺を呼ぶ声を最後に、俺は坂城には二度と顔を遇わせないと誓った。

雪白に会った。
目の前に躍り出て「お前なら何か知ってんだろ!?藍が変なんだよ!いや季節もおかしいしさっきまで冬だったろ!?なあ!!」なんて言ったら平手打ちを食らっていつもの倍の罵声を浴びせられ、いつもとは少し違う人を馬鹿にした目で睨まれた。
「あんたなんて知らないわよ。というか藍のこと気安く呼ばないでくれない?」と言われた。
「お前も俺のこと知らないのか」「アンタみたいな人間知らないわ。二度と私と藍の前に現れないで」
また俺は逃げ出した。

平野に会った。
やっぱり藍達と反応は変わらなかった。
首を傾げて、「何を言ってるのかわかりません」と言った。
またショックなことに、平野は鴻季のことも知らなかった。それどころか、「鴻季さん?って、僕のクラスの神人さんのことですか?勘弁してくださいよ、あんな野蛮な女性僕じゃ手に負えません」
俺の知ってる平野じゃなかった。お互いのことが大好き何より大切で、公共の場でいちゃつくバカップルは、どこにもいなかった。

ダメもとで鴻季と会った。
只今絶賛お楽しみ中で、同学年の不良共を一掃している最中だった。平野とくっついてからはこんなことしなくなったのに…いや、今2人は赤の他人なんだっけか。
鴻季は俺と中2の頃初めて会ったときのようながさつさで、何より楽しそうだった。
暫く眺めていると、「何だよ、お前もやんのか?」と睨まれたので、俺は両手を上げて「通りすがっただけだよ」と言ってそこから立ち去った。涙が出そうだった。


「…なんだってんだよ」
この夢はどこまでも俺を貶めたいらしい。
坂城の反応を見る限り、俺はちゃんと存在しているらしい。ただ藍や鴻季たちの記憶に俺がいないだけだ。妙に凝ってる設定だ。
走り疲れて、精神的にも来ていて、俺はふらりと廊下の壁に寄り掛かった。
あと10分で昼休みが終わる。授業に出る気力はない。
深くため息をついて痛む頭を押さえていると、見覚えのある長い甘木色の髪が視界に入り込んだ。
…そうだ、今は留学生がいるのだ。先月ドイツに帰ってしまったからいないものだと思っていた。

「シルフィーっ!!」
と、声をかけてはみたものの、俺英語わかんねぇじゃねぇか!
振り返った甘木色はやっぱりシルフィーで、名前だけは伝わったのか立ち止まってくれたがこちらを一瞥しただけに留まり、周りにいた英語を話せるらしい同級生が先を促して結局それだけだった。
…しかしそれに続いて、OLTの外人の先生と話しながら俺の前を通過するフロウドがいた。
「フロウド」
思わず腕を掴んで引き留める。困惑した目に俺が映って、しかし俺は何かを言おうとして、凍りついた。
フロウドが無表情じゃなかった。藍に続いての衝撃だった。何となく覚悟はしてたけど人格まで変わってるとか聞いてねぇぞ!!
そう、俺の知ってるフロウドはそこにはいなかった。
「…―――?」
フロウドが英語で何かを言う。英語が理解できない俺は目の前の現実にも着いていけない頭でぐるぐるするだけで次のリアクションが起こせない。
「……」
するとフロウドはやんわりと外人の先生に英語で何かを説明して先に行かせて、俺に向き直った。
コホン、咳払いをして日本語を話した。
「何か用?」と。
頭いいのは健在なのかと突っ込んだ。
フロウドは無表情の変わりに普通の、俺たちの様な年相応の表情をしていた。髪型さえも若干違っていて、ホントに変な感じで、親切で人を馬鹿にしないし、ただし気持ち悪い。
こいつ笑うとイケメンなのかと思った。そういうことも相まって、俺は泣きそうになりながら呟いた。
「その様子じゃ俺のこと知らないようだけど、ちょっとお前の頭脳を貸してくれ。雪白は話しも取り合ってくれなかったんだ。見ろよこのほっぺ、平手打ちとかひでぇよな。とりあえず聞いてくれ。実は俺気がついたら彼女に存在忘れられててさぁ、別にフラれたって言う意味じゃない。最初っから、俺の名前すら知らなくて。それから坂城…あんなに仲悪かった奴がヤケに馴れ馴れしくて…そいつ以外はみんな俺のこと知らないっていうんだ。色々変わってて、変な感じで。お前だってそうなんだぜ、言っちゃ悪いけど、俺が知ってるお前はすっげぇ嫌な野郎だった。チビチビうるせぇし雪白と一緒にその頭脳を楯に散々俺を馬鹿にしやがって。もう訳がわからねぇ。なんなんだよ、まるでまったく別の世界に来たみてぇな…」
「パラレルワールド」
「は?」
フロウドは何でもないように言った。
「あんたの頭が云々真実云々は兎も角、あんたの知ってる世界とは平行して別の世界が存在すること。そこには同じだけど同じじゃない自分がいて、違う運命を辿ったり違う結末を迎えたりするっていうやつ。聞いたことぐらいはあるんじゃないか?パラレルワールドくらい」
…やっぱり訳わからん。







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