アスカは社会人だ。中小企業の経理部、なんて聞こえはいいが、やっているのは雑用ばかりだ。不満はなかった。ただ退屈ではあった。


 女友達から突然電話があり、ちょうどアスカも休みだから会おうとなって今は外にいる。
 薄ピンクのブラウスにジーンズとラフな格好。財布とケータイしか持っていない。薄化粧はしているが、すっぴんと大して変わらないナチュラルメイクだ。
 どうせお茶を飲んで話すだけだろうと思いながら、駅に向かって歩いていた。
 毎日通勤で通い慣れた道。アスカにとっては平凡な道だった。この日までは。

 アスカがコンビニの前を通った時だ。

「アスカちゃんっ!」

 コンビニから出て来た男がアスカの名を呼び、近付いてきた。赤茶けた髪に白い肌、中性的な印象を受ける顔は柔らかに笑っていた。

 頭一つ分ほど背の高い顔を見上げてアスカは考えた。

 この人、誰だっけ?

 数秒考えたが答えは出なかった。会ったことのある人ならば忘れることのないアスカだ。これは知らない人だと結論を出した。
 だからアスカは先を急ぐことにした。

「さよなら」
「え、ちょっと待ってよっ」

 歩こうとしたアスカの腕を男が掴んだ。痛くはないが振り解けない強さだった。

「アスカちゃーん!」

 さらには抱き付いてきた。

「何なんですか、あなた。セクハラならもっと綺麗な方がいますよ」
「アスカちゃんが一番可愛いよ」
「どうでもいいですけど、いい加減離してください」
「えーやだ」
「叫びますよ」
「アスカちゃんになら鼓膜破られても悔いはない!」
「警察呼びますよ」
「せっかく会えたのにまだ離れたくなーい!」

 両肩に手を置かれ、アスカは逃げるに逃げれなくなかった。

「そーだっ アスカちゃんっ僕の家においでよ!」

 男が指差した先はコンビニの上にある高級マンションだ。アスカは毎日見ていたが、入ったことも住人を見たこともなかった。

「何なんだ、アンタ」
「遠慮なんてしないでっ」

 男は笑ってアスカの手を引いて歩き出した。

 遠慮なんか一切してない、と思うが口には出さなかった。アスカは流れに流される、長いものには巻かれろ体質であった。

 どんどん進み、マンションのエントランスを過ぎてエレベーターに乗った。男はひどく楽しそうでスキップしそうな勢いだ。アスカはため息を零すだけだった。
 エレベーターのボタンは18階まで有り、男は15階を押した。こういったマンションは階が高いほど家賃も高くなる、と聞いたことがあるアスカは少なからず驚いた。
 こんなちゃらんぽらんな男が住めるとは思えなかった。
 外見はいたって普通、とは言えない。上下青のスウェットに黄色のクロックス、赤茶色の髪の毛が緩くひねっているのはおそらく寝ぐせだ。背は高いが姿勢の悪さで台無しになっていた。

「着いたっ」

 浮遊感とともにエレベーターが止まり、ドアが開いた。男がアスカの手を引いてまた歩き出し、一番奥の扉で止まった。

「ここが僕の家だよーん」

 鍵を掛けていないのか、何もしないで扉を開けた。アスカは押し込まれるままに上がった。

「あ、靴は脱いでね」
「分かってます。ってか、何で上がんなきゃいけないんですか、約束あるんですけど」
「そんなのまた今度でもいいじゃんっ ほら上がって上がって」

 隙をついて帰ろうとしたアスカだが、男に阻まれた。なおも腕を引かれて部屋に進んだ。

 部屋の中は雑然としていた。広いと言えば広いが、壁には天井までの本棚が有り、小難しいなんとか理論や図鑑、子ども向けの可愛らしい絵本に少年漫画や少女漫画が折り重なっている。床には抱き枕サイズのぬいぐるみがいくつかと、色んな種類のポテトチップの袋が転がっている。

「………」

 絶句するとはこういうことか、とアスカは思った。
 アンバランスな部屋で立ちすくむアスカを部屋の真ん中にあるソファに座らせ、男はキッチンに行った。

「コーヒー紅茶緑茶なにがいいー?」
「…コーヒー」
「ざっんねーんっコーヒーは品切れ! お水でガマンしてね」

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップを2つ持って戻ってきた。

「帰っていいですか」
「だーめ」

 隣りに座る男と距離を取り、睨んだ。しかし男が気にした様子はなかった。

「お水どーぞっ」
「どうも」
「ポテチもいる? のりしおうすしおコンソメピザカラムーチョ夏ポテトなんでもあるよ」

 そう言って、男は床やテーブルの上に散らばるポテトチップをかき集めた。

「いりません」
「僕のオススメは夏ポテト梅味かなっ」
「だからいらないって」

 アスカが答えた瞬間にクラシックのメロディーが流れ出した。発信元はアスカのケータイで、表示された名前は約束をしている友達だった。
 電話に出ようとしたアスカの手から男がケータイを奪い、許可もなく通話ボタンを押した。

「もしもーし、アスカちゃんは僕と遊んでるから今日はもう電話しないでね。バイバーイっ」

 そうして一方的に話し、切った。

「何勝手に出てんですか」
「今の約束してた子? どうせそんなに会いたいなんて思ってないんでしょ? 無理やり会おうとか言われて断れなかったとか?」

 図星だった。

「でも、アンタだって一緒じゃない」
「僕はいいのっ アスカちゃんと本当に会いたかったんだから」

 柔らかく、本当に柔らかく笑われてアスカは何も言えなくなった。そんなに優しい目をしないで欲しいとアスカは思った。知らない筈なのに、怪しさ満点なのに、無下に出来なくなる。

「そうだ! コレ、預かっておくね」
「はい?」
「だって必要ないじゃんっ」

 言うやいなや男はアスカのケータイをスウェットのポケットに押し入れた。

「…一体何者なの?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 僕は秀人だよ。ヒデトくんって呼んでね」

 今更名を名乗った秀人は「アスカちゃん、ポテチ食べよっ」と、笑ってピンク色の袋を開けようとした。その手首をアスカは掴んだ。驚いた秀人は動きを止める。

「ヒデト、私はコンソメのが好きです」

 言って、アスカは床に落ちていたコンソメ味のポテトチップを拾い上げた。開けてもいいかと聞こうとして隣りを見ると、目を見開いた秀人と視線が絡んだ。
 アスカは何故秀人が驚いているのか考え、思い付いた。

「ごめんなさい。くん付け忘れてた」

 ヒデトくんと呼べ、と言われていたのを思い出し、アスカは素直に謝った。秀人は丸くしていた目を戻して笑った。

「いいよんっ アスカちゃんになら何て呼ばれても嬉しいし」
「変態って呼びますよ」
「それは悲しいかもっ」
「かも、なの?」
「じゃあ絶対悲しいっ」
「じゃあって」

 ひどく嬉しそうな秀人の笑顔に、アスカはどうしてだろうと疑問に感じた。初対面で突然部屋に連れ込まれて、名乗ってない名前を知られていて、ケータイまで奪われて。軽く誘拐軟禁なんじゃないだろうか。けれどアスカは危機感を持っていなかった。

 この人は私に危害は加えない

 アスカは何故かそう確信していた。だから逃げようとは思わなかった、本当に不思議だけれど。

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