僕にとってピアノとは、弾かなければならないものだ
楽しくも好きで弾いてるんでもない。僕には《才能》があるから、《天才》ピアニストにならなければならない
それでも昔は、ピアノを弾き始めた頃は楽しかった。誰にもてはやされることはなく自由にピアノを弾いて、上手だねって笑ってくれるだけでよかった
子どものピアノなんて笑っちゃうほどたどたどしくて、でもそれでよかったのかもしれない。けれど僕は最初こそ周りと変わらなかったが、少しすると次々に曲を覚えていった。大人が驚くスピードで僕は技術を身に付けた
そうすると僕は《天才》だと奉り立てられた。ピアノをただ弾いただけでは誰も笑ってくれなくなった。もっと上手く弾けるはずだ、と罵られる。上手く弾けば弾いたで、さすが《天才》と絶賛された。僕は天才的にピアノを弾かなければならないんだ
不特定の誰かに笑ってほしかったんじゃないのに
けれどピアノから逃げるには遅かった。ピアノはすでに僕の身体の一部だ。今更ピアノを弾かないなんて考えられない
好きでもないのに離れられない、楽しくないのに止められない。まるで呪縛だ。僕はピアノから逃れられない。逃れる気すら起きないのだから
そんな時、先輩に出会った。僕の周りには、やたらと絶賛する人間か嫉妬を向けてくる人間しかいなかった。そのどちらにも当てはまらないのが、先輩だった
先輩は不思議だ
人付き合いに意味を見い出せない僕は他人と親しくなるという気がない。だから自然と口調も態度もキツくなる。そんな僕に近付こうとする人間はそういなかった
けれど先輩はあからさまに嫌がる僕に構わず話しかけてきた。邪険にしたってすぐ忘れて、拗ねたと思ったら笑っていた
始めは先輩も僕を《天才》ピアニストだと思って近付いて来たのかと思った。でも違う。先輩は僕がピアノを弾けばすごいすごい、と笑うだけだ。ピアノを、音楽を知らない先輩は僕が間違えたって分からない。だから貶すこともしないし、無意味なもてはやしもしない。笑って、すごいと言って、もっと弾いて、とせがむ。それが先輩だった
笑う先輩の目に映る僕はいつも無表情だった
当たり前だ。僕は笑うのが好きじゃない。他の表情だってできるだけ出したくなかった。無心に無感情に無関心に、それが他人に対しての僕だ
それが先輩には通用しなかった。先輩といると、呆れたりおかしかったり笑っていたりした。蓋をした感情は先輩の前ではいつの間にか開けられていた。不快なはずのそれを甘受している僕がいて、先輩のそばは嫌いじゃなかった
先輩がいると苛々もするけど、ピアノを弾くのが楽しくも感じるようになった
僕は鈍い人間ではないと思う。自分の感情なら尚更分かっているつもりだ。だから僕が先輩をどう思っているか、気付いてしまうのが嫌だった。だってソレは僕には無縁の感情だ。そんなものは要らない。必要ない。そう思っていたから
だけど、そう思う時点で気付いているのと同じだった。気付かないフリをしていただけで、本当はもう、ずっと知っていた。ずっと前から分かっていた
僕が欲しかったのは、僕に笑いかけてくれる人
一緒にピアノを楽しんでくれる人
僕はどうしようもなく先輩が欲しかった
(ピアノ弾き少年の独白)