先輩は、ピアノどころか音楽自体に疎かった

特にクラシックなんてモーツァルトをかろうじて知ってる位でバッハとシューベルトの違いも分かっていなかった。(しかしモーツァルトも人名ではなく、曲名だと思っていたらしいんだから本当に呆れる)

なのにピアノの音を聴くのは好きだと、僕の奏でる音が好きだと、はにかむのだ




第二曲





演奏者は、ピアノの練習をするなら誰もいない方がいいと思っていた。他人がいると気が散ってしまうからだ。好奇の目に晒されるのは嫌いだった。

旧校舎に使われなくなった音楽室がある。机を取り除かれた室内に一台のピアノがあるだけ。しかもグランドピアノ。古いし少し傷付いてはいるが、きちんと調律もしてあるから、誰かがわざと置いてるのかもしれない。

けれど誰かが来ることはなく、その音楽室は偶然見つけた演奏者の練習場となっていた。

1人で弾きたい時に弾きたいだけ弾く。簡単に出来そうでなかなか難しい演奏者の願いが叶った。ハズなのに、


「またなんか不思議な曲弾いてるねぇ、少年」


少し前から1人ではなくなってしまった。

いつの間にか音楽室に入っていた聴き手はピアノのすぐ横に立っていた。勝手に入ってくるなと言いたいが演奏者の物ではないからそれも言えず、仕方なく黙認していた。


「また来たんですか」
「また来たんですよ」


キレイな姿勢のまま手を動かす演奏者はわざと言葉を繰り返してきた聴き手を見ないでため息を吐いた。その拍子に旋律が狂ってしまい、手を止めた。舌打ちをしたくなって、またため息。


「今日はなんていうの弾いてるの?」


2度も吐いたため息にも気付かないで聴き手は聞いた。


「…リストの超絶技巧練習曲第五番鬼火です」
「ちょーぜつ、ぎこー…? なんか早口言葉みたいだね」
「…」


聴き手の感想には触れず、演奏者はもう一度始めから弾き直した。そもそも相手をするから練習を中断させられるのだ。ならば無視をして弾き続ければいい。演奏者はそう考えた。

しかし無視できないから聴き手はそばにいるのだ。今もまた興味深そうに演奏者を見ていた。自分には絶対弾けないだとか、キレーな曲だねとか、返事を返さなくても1人で話が成立していた。


「それにしてもこんな曲が練習曲ってすごいね」


もしかしたら無視をされていると分かってないのかもしれない。楽しそうに笑う聴き手を見て、演奏者は思った。

とりあえずは最後まで弾いて、鍵盤から手を離した。音が途切れると同時に聴き手は拍手を送った。それを一瞥して、演奏者は諦めたように尋ねた。


「それで?」
「ん?」
「今日はなんですか?」
「あ、分かる?」
「分かりますよ、先輩分かりやすいですから」
「一言余計!」


腰に手を当てて怒る素振りをした聴き手は、それでも次には笑って演奏者を見た。


「あのね、弾いてほしい曲があるの!」
「またですか」
「いいでしょ?」


こんな風に聴き手からリクエストされる事はそれほど珍しくはなかった。大抵、この音楽室に来る時は何かしら聴きたい時なんだと演奏者は知っている。

初めの頃はそれなりに遠慮をしていたみたいだが、最近は練習していてもお構いなしになってきたと演奏者は思う。そして、それを突き放せないのが原因でもあるのだろうと。


「…曲にもよりますけど」
「えっとね、タイトルは知らないんだけど映画に使われてたヤツ!」
「何の?」
「レオさまとクレアちゃんがやってたの!」


曲のタイトルを知らないのはいつもだから驚かなかったが、まさか映画のタイトルまで分からないとは思っていなかった演奏者は僅かに目を見開いた。それから呆れて聴き手を見た。


「映画のタイトルまで分からないんですか?」
「うん、忘れちゃった」
「俳優は覚えているのに?」
「タイトルだけすっぽりね!」


少年なら分かると思って! と笑う聴き手に演奏者は口を閉じるしかなかった。出会って少ししか経っていないというのに、その信頼はいつできたのか、不思議でならない。

聴き手は内容は覚えてるよ、と言って偏ったあらすじを演奏者に伝えていった。曖昧な相槌をうっていた演奏者はキツくあたるはずだった言葉を飲み込むしかなく、渋々と聴き手の疑問に答えた。


「…ロミオとジュリエットですよ」
「ああ!ロミジュリ!」
「…」
「さっすが少年だね!」


手を握り、納得する聴き手はキラキラと笑った。その笑顔が何故だか見れなくて、演奏者はピアノの黒い屋根に目を向けた。広がる黒に聴き手の姿が写っていた。聴き手は上機嫌に演奏者をまっすぐ見た。


「でね、2人が出逢うところで女の人が歌ってる曲なんだけど知ってる?」
「あぁ。デズリーの歌ですか」
「デズリーさんっていうんだ! じゃあ少年、曲も知ってるよね!?」
「…えぇ、まぁ一応」
「弾いて弾いて!」


できれば弾きたくないという雰囲気の演奏者は答えに渋った。なかなか弾こうとしない演奏者に聴き手は身を乗り出し、顔を近付ける。ずっとピアノの屋根を見ていた演奏者は無理やり目線を合わせられて、体を少し後ろに引いてしまった。そしてもう一度念を押すように弾いて、と聴き手は上目使いで言った。


「(あーくそ!)…分かりました、弾きますよ弾きますから離れてください」


近すぎる位置に気まずそうに顔をしかめて聴き手の肩を押した。それほど強い力ではなかったから聴き手はそのまま体を起こした。その表情はとても嬉しいと表していた。


「やった! ありがと少年!」
「まだ弾いてないですけどね」


ピアノに頬杖をついてにこにこと嬉しそうに待っている聴き手がご褒美をもらう子どもみたいだと思いながら、内心悪い気はしない自分に気付いた。面倒なはずなのに嫌じゃないのは、聴き手の笑顔を見れるかもしれないと思って複雑な気持ちになった。

けれどそれには蓋をした。まだ考える時期じゃない。今はまだ、知らなくていい。知らないままがいい。聴き手は黙って待っている、だからピアノを弾かなくては。演奏者はそう思うことにした。

椅子に座り直してピアノと向き合った。そして耳の奥で流れる旋律を指に乗せた。


緩やかで重厚感のある音色
しなやかに艶やかに
繊細でふれることは叶わない
歓喜、幸福、感傷、悲痛、狂気

様々な感情が心臓を通っていく


(ピアノの音だけなのに、どうしてかな…。悲しかったり、幸せな、感じがする)


聴き手はじっと耳をすませて聞き入っていた。息もできるだけ小さくして、音を見過ごさないように遮らないように。

そうして、音色は止まった。


「っ、すごい! すごいよ少年! 私感動しちゃった!!」
「…アリガトウゴザイマス」


大歓声と拍手を送る聴き手に若干引きつつも演奏者は礼を言った。聴き手の興奮は収まらず、何度もすごいすごい! と演奏者を誉めている。


「本当にすごいね!」
「…誉めてもらうのは有り難いんですが、先輩はちょっと語彙が少ないと思います」
「すごーい!…って、なんで少年はすぐそういうこと言うかな!」
「そろそろ飽きてきました」
「ヒドい!」
「それはそれはすみません」
「絶対悪いって思ってないし!」


人がせっかく浸ってたのに! と怒る聴き手にどこか安心したように演奏者は肩をすくめた。

他人に誉められることはよくあることで、別段、緊張することはない。しかし聴き手にやたらと誉められると、何故かむずがゆくて落ち着かなかった。それが同じ言葉の繰り返しでも、大勢に何百通りの誉め言葉を言われるよりも演奏者には響いた。

だから機嫌を損ねるだろうことを言ったのだ。思惑は見事に叶って聴き手は恨めしそうに演奏者を見ていた。それも少しの間だったけれど。


「あっ、そういえば!」
「なんですか?」
「タイトルは何ていうの?」


怒っていたのはどこに行ったのか、聴き手はすっきりとした表情で聞いた。こういうところが演奏者には理解できないところのひとつで、嫌いになれないところのひとつだった。

演奏者はもちろんタイトルを知っている。けれど答えるのに少し迷った。意地悪、ではなく、言いづらかったからだ。

しかし、と心の中で首を振るう。深い意味などないんだし、それに反応が面白そうだ、そう思って演奏者は小さく口角を上げた。


「キッシングユー、です」
「?…あー英語、なんだ?」
「英語の曲ですからね」
「えぇー…ねぇ少年、意味は? 日本語にしたら何?」
「中学で習うレベルですよ?」
「少年の発音良すぎなの。聞き取れません! 私のリーディングの点数教えようか?」
「いえ、いいです」
「じゃあ教えて!」


演奏者はそこで言葉を切った。意味はなかったが、少し気持ちを落ち着けたくなった。それから聴き手を見上げて言った。


「Kissing you あなたに、キスしてる」
「…え?」
「直訳ですけど、こんな意味です」


単語単語を区切った言い方は聞き取りやすいようにわざとだ。一瞬呆けた顔をしていた聴き手は、すぐに分かりやすすぎなくらい目を見開いた。その頬が徐々に紅く染まるのがなんだかおかしかったから、演奏者は満足気に笑った。


「どうかしました? 先輩?」
「えっ、いいや? えぇっとー、…うん、外人さんってストレートだな、とか思ってた」
「そうですね」
「まま、まぁ人前で普通にちゅーしちゃうもんねっ日本人とは違うよねっ」
「違うでしょうね」
「だよね、お国柄だね!……て、ん?…てか少年! 私で遊んだでしょ!」


くつくつと笑う演奏者を見て、聴き手はやっと自分が遊ばれたと気付いた。


「だって先輩、分かりやすっ…ははっ」
「なっ! 仕方ないじゃん! そんなタイトルだとは思わなかったんだから! だいたい少年がもったいぶるから!」
「僕のせいですか」
「そう! 少年がもっとさらっと言えばよかったのに!」
「顔真っ赤ですよ」
「まだ言うかな! 少年の意地悪!」
「ははっ、あはは!」
「ていうか笑いすぎ!」


聴き手が怒れば怒るほど演奏者はおかしくなった。どんなに睨まれたって全く怖くなかったからだ。いつもは演奏者を振り回してる聴き手が、今までにない一面を見せていることが嬉しかった。

声を出して笑うつもりなどなかったのに、どうしても止まらなかった。それに聴き手になら見られてもいい気がした。そんな安堵感が演奏者の気を緩め、余計に笑顔を誘っていた。

その演奏者の珍しい笑顔を引き出させた張本人の聴き手は最初は不満そうにしていたが、だんだん演奏者の笑い声につられていた。

演奏者と聴き手は、いつの間にか2人で笑っていた。




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20101215


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