朝起きて、鏡の前に行くとヒドイ顔の私がこっちを見ていた。



プルル、プルル、プル、ピッ


「もしもし、朔真? おはよう」
「おはよう、…こっちはおはようの時間じゃないけどね」


開口一番に嫌みを言われた。まったく、素直じゃないんだから。

彼はプロのピアニストになって日本にいる事もあるけど、海外に行く事も結構ある。それでも2〜3週間で帰ってくるんだから、昔に比べればマシだけれど。

確か今はイギリスとか言ってたから、向こうは夜かな。いつも思うけど、時差って不思議。昇ってきたばかりのあの太陽は、どこかで沈んだ後の太陽で。同じだけど同じじゃない、私と朔真みたいに。


「朝から電話なんて珍しいね。そんな余裕こいてていいの?」
「まだ大丈夫なんですー」
「そう?」


彼が笑顔を噛み殺しているのが受話器越しに分かった。きっと、ちゃかしてるようで優しい笑顔なんだろうなぁ。

鏡の中の私はメイクが半分でとても人に見せられる顔じゃない。下地とファンデーションしか塗ってない起き抜けのマヌケ面だ。本当は早く準備をしなくちゃいけないのに。


「なんかね、急に朔真の声聞きたくなったの」
「ふーん」
「朔真はどうしてるのかなーって」
「1人ホテルで譜読みしてたよ」


出来るならピアノの練習したいんだけど、なんて彼らしい。さすがにホテルにピアノは持ち込めなかったみたい。それに夜だしね。少しは休んだら?って言ったら、十分休んでるよって返された。信憑性には欠けるけど。


「本当に朔真はずっとピアノね」
「ずっと、ではないと思うけど。それで、詩恵はどうしたの?」
「え? なにが?」
「何かあったんじゃないの?」
「…何もないよ?」


彼はたまに勘が鋭くなる。あと心配性。大学に通ってた時は勉強や飲み会、会社に勤めるようにってからは仕事や人間関係まで心配してくれている。

会社はきちんとしたところだ。上司や同僚との関係も良好だし。けれど上手くいかない事があるのも事実で。解決法がみつからない事もあって。大問題になるんじゃないけれど。


「会社、休みたいな、なんて」


思ってしまったりしているだけなんだよ。

特別に何かがあった訳ではないんだ。ただ、ちょっとだけ、毎日積もり積もったわだかまりが今日、満杯になってしまっただけで。

彼にこんな弱音を吐くのは初めてで、どんな反応をするんだろう。怒るかな。ふざけた事言ってないで、ちゃんと行きなさいって。彼は真面目だから。

あぁ、でも彼にそう言われたら頑張れる気がする。無いやる気を無理矢理にでも絞り出して会社に行こうと思える気がするな。あれ、私もしかして彼に叱咤激励してほしかったのかも。

長いため息を吐き出す彼の言葉を待ちながら、やっぱり怒られるんだろうなと思っていた私の耳に届いたのは、存外に優しい声だった。


「いいんじゃない? 1日くらい休んでも」
「え…、今なんて?」
「だから1日くらい休んじゃえばって」


まさかの返答に驚いて、聞き返してみても変わる事はないから聞き間違いじゃないよね。


「…朔真がそんな事言うなんて意外だわ」
「そうかな?」


だって私はてっきり呆れられて怒られるもんだとばっかり思っていたんだから。

どうしてそう思うの、と訊けば彼はだって、とどこか楽しそうに言った。


「だって詩恵が仕事休めば丸1日電話して、詩恵を1人占め出来るだろう?」


たまにはそんな日があってもいいと思うんだ、なんて嬉しそうに笑う(見えないけど声からすると絶対に笑ってる)から、もう。私は困ってしまう。

なんていうか、彼は留学から帰って来てからなんだか甘くなった。たらしっていうか、オープンっていうか。とにかく甘い。レディーファーストは当たり前って感じだ。

そういったものに慣れてない私は、彼がそういった言動をする度に照れてしまってどう対処すべきか分からなくなってしまう。更には彼がそんな私を見て楽しんでるから質が悪い。

今だって受話器の向こうですごく楽しそうにしてる。ちょっと憎たらしいけど、彼の笑顔が見れないのは残念かな。


「朔真は私を困らせるのが楽しいの?」
「まさか! 詩恵の味方なだけ」
「…またそんな事言って」
「本当だよ? 僕は詩恵が1番だから」


いちばん、すきだからね


だからそういう事をさらっと言わないでほしい。にやける顔が元に戻らなくなったらどうしてやろう。

何も言えないでいる私に、彼は満足そうに笑った。


「それで仕事はどうするの?」


優しい優しい、包み込むような声だった。全てが許されるようで、たまらなく泣きたくなって。でもぐっと堪えた。鏡の中の私は決意が固まったみたいで、笑って口を開く。


「やっぱり行くよ」


彼に休んでもいいんだと言われて、逃げ場があるのだと分かったら少し心が軽くなったんだ。甘えていい場所がある、それが分かっただけですごく安心したから。

だからもう少しくらい頑張れる気がするの。


「そう? 残念」
「ふふ、電話はまた今度しようね」


休めばいいのにと言わんばかりの声音に笑ってしまう。本当に彼は私に甘い。


「じゃあ、少しだけ頑張っておいで」


でも甘いだけじゃなくて。私が甘えたい時に甘やかしてくれて、厳しく叱ってくれる時もあって。そうやって支えていてくれるから。


「うん、頑張るよ。行ってきます」
「行ってらっしゃい」


笑って今日も乗り越えられるんだろうな。


甘えん坊さん、こっちにおいで
(嫌になるくらい甘やかしてあげようか)


20120813



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