ピアノがすき

透き通った音色がふわり、ふわり、と私の周りを舞っている。舞う、はおかしい言い方かもしれない。けれど、私には見えない音楽が舞っているみたいに思えたのだ。穏やかに軽やかに、時には寂しさを持って

少年の弾くピアノは面白い。とても綺麗でもあるんだけど、楽しくおかしく聴けるピアノなんだ

私はクラシックには疎いから、どちらかといえば疎遠になりがちなピアノ。それがこんなにも身近に感じれることが不思議で、嬉しい

だから少年のピアノが、すき




第一曲





聴き手である彼女より2つ年下の演奏者の少年は、いつもの如くピアノの前に座り、指ならしとばかりに軽く鍵盤を叩いていた。

今日は珍しく楽譜を持っていて、先ほどからにらめっこをしている。もしかしたら試験があるのかもしれない。

聴き手はちょっと気になって、読めもしない楽譜を演奏者の後ろから覗き見してみた。しかし全然分からなかった。聴き手には長靴みたいな足跡が、テキトウに付けられているようにしか見えない。どうしてこれがこんな綺麗な音色になるんだろうと首を捻った。

さらに楽譜には沢山の書き込みがしてあり、聴き手にはより複雑に見えた。さっぱり意味が分からない中でも、ひとつ特に目を引くものがあった。

‐tarantella‐

やたらとクセのあるローマ字で書かれ、強調するかのように何重かの円で囲まれているソレ。興味を引かれた聴き手は疑問を口にした。


「ねぇ少年、コレなんて言う意味?」


タラテッラ? と、そのまま読んで指差した。


「タランテラ、です。南イタリアの舞曲で3/8、6/8拍手のテンポの早い曲ってことです」
「ぶきょく?」
「舞う曲で、舞曲。まぁ簡単に言うと踊りのための曲ですよ」
「ふーん」
「…分かってます?」
「たぶん」


曖昧な返事にやっぱり、と思いながらも演奏者はそれ以上は説明しなかった。

聴き手が演奏者に音楽のことを聞くのはいつものことで、さらに言えば、理解しているかは微妙なところだった。


「なんて言うか足をこう、タッタカ、タッタカ、ってさせそうだね!」


そう言って、演奏者の隣りに来て足でリズムを取っていた。それは決してピアノの音とは合っていなかったが、聴き手は楽しそうに跳ねた。その踊りと言えない踊りに演奏者は口元を少し緩めた。


「僕も見たことはないんですが、この曲は1人より
も大勢で、男女のペアが円になったりして踊るらしいですよ」
「マイムマイムみたいな?」
「当たらず近からず」
「……? あ、それって全然違うって言いたいの?」
「よく分かりましたね」
「もー! 少年も知らないクセに!」
「そうですけど。とりあえず、先輩が今踊ってたのは絶対違うと思いますよ?」


爽やかに笑って見せて(もちろん聴き手には意地悪く見えたけれど)リズムを早くした。付いて行けなくなった聴き手は踊るのを止めた。


「でも、なんで踊りの曲なんて弾いてるの?」


意地悪っと言っていたのに、次には忘れてしまったかのように笑って演奏者に尋ねた。演奏者はすぐには答えなかった。

駆け足のようなリズムは上り詰めるだけ上り詰めて、あっさりと終わった。聴き手には最後の音がまるでお辞儀をしているように思えた。だから賛辞の拍手を贈る。キレイだなんだと言っている聴き手を横目で見ていた演奏者は両手を下ろし、ゆっくりと口を開いた。


「…これはショパンのタランテラなんです。彼が金に困って作曲したとか、旅行中に聞いて興味を持ったとか言われてます」
「へぇ」
「大して有名でもないし、評論家からの支持もあまりされてないけれど、単純な繰り返しを避ける工夫をしたり、細かいところまで手がかけられていて。ショパンらしい部分は少ないのに、ショパンらしさがちゃんと感じられる曲だと、僕は思うんです」
「うん…?」


演奏者は楽譜を閉じてピアノの上に置いた。それは至るところに折り目が付いて何度も手にされているようだった。


「部屋を整理してたらみつけたんですよ、コレ。小学の時、ショパンにハマってたから手当たり次第に弾いてました」
「ショパンが好きなんだ?」
「そうですね、嫌いじゃあないです。飽きもしないで毎日弾いてたし。…それで懐かしくなってまた弾きたくなった、ただそれだけですよ」
「ホントにそれだけ?」
「何疑ってるんですか?」
「だって少年。いつも楽譜、持って来ないじゃない」
「……」
「試験前だって課題だって、全部覚えてるから楽譜はいらないって言ってたでしょ?」


ただ純粋に、聴き手は聞いていた。

どちらかと言えば鈍い部類に入るのに、たまに鋭いから油断出来ないと演奏者は思った。

別に言えない理由ではない。演奏者が小学5年の時、ピアノを弾くことが一番楽しかったあの頃。演奏者はショパンの曲ばかり弾いていた。有名なものから無名なものまで、ショパンが作曲したと言われたものは端から端まで。

その中でタランテラはなかなか上手く弾けた試しがなかった。もちろん、他にも難しい曲は山ほどあるし挫折を何度もしたが、当時の演奏者はそれなりに弾けていたと思っていた(今からしてみれば、なんと驕っていたことか)。

それで躍起になって、何度も練習をして、なんとか弾けるようになったのだ。本当に、なんとか、なのだけど。他の曲だって同じようなものだった。

演奏者は、確かに同年代から見れば秀でたピアノ演奏者だ。天才と言われ、いい気にもなっていた。けれど演奏者は、天才的な才能があっても天才ではない。練習しなければ上手くならないし、何でも簡単に弾くことは出来なかった。

今は自分の力をよく分かっている。どの程度なのかも、天才と言われたってやっぱりまだ練習が必要なことも。周りの人間がどれほど期待して羨望しているかも、分かっていた。


(何も知らなかったあの頃の方が楽しかったのは何故だろう)


練習に練習を重ね、昔と比べほどにならない位、完璧にタランテラを弾ける。もっと難しい、技法の凝った曲だって今の演奏者なら弾けるだろう。ピアノの技術は格段に上がっていた。


(下手だったのに、なんであんなに楽しかったんだろう)


演奏者はあの頃の自分を思い出したくて、あの頃、一番弾いた記憶があるタランテラを楽譜を持って弾いたのだ。

それを説明するのはどこか阻まれて、演奏者は聴き手に分からないように苦笑した。


「楽譜を持って来たのも、本当に懐かしかっただけですよ」
「ふーん?」


ウソは吐いてないと思って演奏者は肩をすくめた。納得しきれてない聴き手は、楽譜を手に取り、ぱらぱらと捲って眺めた。

初めから終わりまで見て、終わりから初めに戻って見て。何度か繰り返していたが意味分かんない! と投げ出した。


「もういいや! 楽譜読めないし書いてあるのみんな英語で宇宙語みたいだし!」
「先輩…文系ですよね?」
「文系でも古典とか現文とか日本語のが好きなのー!」
「イマドキ英語も話せないとやってけませんよ。と言ってもコレはイタリア語ですけど」
「えぇ!? もういいよ! 日本人だから!」
「理由になってませんって」


呆れ顔の演奏者を見て、それが小さく笑っているように思えて聴き手も笑った。そして良いことを思い付いたとばかりに満面の笑みを演奏者に向けた。


「じゃぁなんか海外行った気分になる曲を弾いて!」
「なんですか、それ?」
「ハワイがいいな! ほら、あの、フラみたいなさ!」
「…絶対映画からですね」
「いいから、早く早く!」


まさかハワイアンミュージックをピアノで弾かされるとは、と愚痴を零す演奏者は今、自分が笑っていることに気付かなかった。



tarantella by Chopin
20101022


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