第三曲より約3ヶ月位前の話




遠くからささやかに流れるピアノの調べ。小さく小さく響くから注意しなければ聞き逃すほど。


(アイツまたあのピアノ弾いてんのか)


音楽教師である水森はタバコをふかしながら旧校舎を見上げた。冷たい空気に乗って聞こえたソレはまだ続いていた。

水森は楽器を奏でる腕はイマイチだが、音を聞き取る耳には自信があった。オーケストラでの誰かの半音高い音、雑踏の中の着信音、寒い日の雪が降る音、防音設備された教室のピアノ。誰もが聞き逃す音を水森は拾った。


(しかしまぁー巧いのにヘタだ)


ピアノを弾いているであろう自分の生徒を思い浮かべ、呆れたように笑う。

技術はもうプロと言って過言ではない程の腕の持ち主、けれどプロとして決定的な何かが抜け落ちている、あの少年のピアノ。


(ブラームスのヘンデルか)


繊細な弾き方はそのまま演奏者の心を表しているようで。何をそこまで、と水森は思う。何をそこまで思い詰めているのか。たかが10数年しか生きていないガキがなぜそこまで追いやられているのか。もっと軽く見ればいいものを。助言したところであしらわれるのが落ちだけど。

難しい曲をここまで弾きこなせるのに、何かが足りない。きっとそれは演奏者自身も気付いているのだろう。それを模索して弾き続けて、見失っている。そんな風に水森には見えた。


(ソレが判らなきゃアイツはそれまでだな)


ピアノ弾きとして音楽家として持つべきもの、プロのピアニストとしてやっていくには必要不可欠なソレ。何より、音楽を続けていく上で大切なこと。

水森はソレが何かを知っていた。知っていたけれど、生徒に教えるつもりはなかった。あくまでソレは自分で気付かなければ意味がないのだ。他人に言われて理解して、では変わらない。

だから水森は口をつむぐ。



しばらく続いていた音が途切れた。北風が木の枝を揺さぶる音と自分の呼吸しか聞こえなくなって、水森はぶるりと体を震わした。急に寒さを思い出し、タバコを携帯灰皿に押し込めて懐にしまった。臭い消しに香水を吹きかけ、戻ろうと足を踏み出した。

その時だ、またピアノの音が鳴り出した。

水森は足を止めた。意識したのではなかった。止めざるを得なかった。


(……音が、違う)


バックミュージックとして使われる事の多い、映画のタイトルにもなったその曲。クラシックではない選曲は演奏者らしくない、つまり他の誰のリクエスト。

水森はそのリクエストをしただろう人物を知っている。彼女も水森の生徒だ。気難しいピアノ演奏者にも屈託なく接する彼女。


(んだよ。ちゃんと弾けんじゃねーか)


ピアノの音は優しく響いている。突き放すでも冷たくでもなく、優しく温かい。

水森はそんな音を初めて聴いた。いつだって生徒のピアノは冷たかったから。まさかこんな風に弾けるとは。つい聴き惚れてしまうような、けれどまだ未熟さが残っている柔らかいピアノの音。

ボサボサの(本人いわく天パの)髪を掻いた。教師であるのに気付けなかった自分の失態をごまかすように。


(でも、アイツ判ってんのかねー。自分がどんな弾き方をしてんのか)


先ほどのブラームスのヘンデルを思い出す。技術は完璧といえるが異様なまでに頑なな音。聴いていて寒くなるような冷たい音色。それと打って変わって今のピアノの音は、所々のミスはあれど柔らかく温かい。

きっと無意識なのだろう。あの生徒は不器用だ。もしくは気付いていないフリをしているのかもしれない。感情に蓋をしがちな生徒のやりそうな事だ。


(だったら思い知らせてやりましょうか。それが教師の勤めってヤツだろ)


水森はひとりごちてその場を後にした。










「なぁ。ちょっと、ビヨンド・ザ・シー弾いてみろよ」
「……盗み聴きですか。最低ですね」


水森は旧校舎の音楽室に来ていた。もちろん聴き手の彼女がいなくなった頃合いをみてだ。図ったそのタイミングに演奏者も気付いたのか、不愉快だとばかりに眉をひそめた。


「ちげーよ。偶然聴こえたんだよ、偶然」
「同じことです」
「いいから弾けって」


センセーのいう事が聞けないのか? とわざと見下せば面白いくらいに演奏者の顔が歪んだ。普段はそんな風には言わないが、こんな時だけ立場を利用するなんて自分も嫌なヤツだな、と水森は内心笑った。

一応教師として敬っているのか、それとも言い返すのが面倒になっただけなのか、演奏者は鍵盤に指を乗せた。


そして響くのはいつもの音。頑なで冷たい、つまらない音。

無表情に弾き続ける演奏者に水森は声をかけた。


「お前さーホントは判ってんじゃねぇの?」
「…何をですか?」
「さっきと音、全然違うけど?」


それってなんでだ? と、繰り返し聞くが応えはない。けれど水森の耳は騙せなかった。旋律に動揺と少しの迷いが混じっていた。


「べっつにお前が趣味で弾いてるだけならそのまんまでも構わねぇよ?」
「……」
「つまらなかろーがなんだろーが弾き方なんてお前の自由だし」


水森はあえて演奏者から目線を外した。音を響かせる黒いピアノを撫でて続けた。


「だけどな、判ってんなら知らねぇフリすんなよ。目を逸らすな。蓋を開けろ。たまには無鉄砲に突っ走れ」


音が止んだ。


「…突っ走って、その後、何も残らなかったら?」
「んなのやらなきゃ分かんねぇだろ。ガキのクセに挫折怖がってんな。自分で掴み取ってみやがれ」
「…ひどい言い種」
「だってお前、ピアノが好きだろ? だったら大丈夫だ」


乱暴な言い方に、けれどどこか心配を含んだ言葉に演奏者は固まっていた体をほぐした。

何の根拠もないけれど、自信だけはあるようで水森は笑ってみせた。演奏者はなんだか馬鹿らしく思えて、肩をすくめた。


「ピアノは…、嫌いじゃ、ないですよ…。今更、音楽を手放せるほど軽くもないし」
「なら何を迷ってんだ?」
「迷ってるっていうか…」
「認めたくないのか? 誰のおかげで判ったのかってことを」


核心を突かれて演奏者は手を堅く握った。


「それがどんな感情から来るのか、認めたくないんだろ?」
「………」
「はっ、青いねー」
「うるさいですよ」


鋭く睨んでみても水森にはただの照れ隠しにしか見えなくて、余計に笑えた。本当に青春真っ只中なんだと思えて仕方がなかった。

ひとしきり笑って、まっすぐに演奏者を見た。口元だけ笑みを残して、目は真剣に。


「まぁソレを無視したいならそうすりゃいい。無かった事にしろ。だけどな、ピアノを続けたいなら感情を忘れるな」
「…」
「そのまま続けたら、お前いつか壊れるぞ」
「…そこまで、脆くはない、ですよ」


力なく言う言葉に信憑性はなかった。演奏者も判っていたからだ。感情を忘れたまま続ければ、ピアノを、音楽を嫌いになってしまう事を。1年ほど前の自分がそうだったから。

それがここの所変わってきた理由。演奏者に訪れた何か。閉じ込めた感情を呼び起こすモノ。曖昧にして、忘れたかったのに。

演奏者は手を開いて見た。骨ばった手。彼女がキレイだと言った手。彼女がすごいと言って笑う音楽を奏でる手。

どうしてかこの手を持っていて良かった、と演奏者は思った。

黙り込んだ演奏者に水森は小さく笑い、問いかけた。


「さっきのお前は、何のためにピアノを弾いたんだ?」


それはいつかにも聞いた言葉だった。その時は答えがなかった。答えなんてずっと見つからないと思っていた。

けれど、今の演奏者は答えを知っている。


「……彼女のために」


彼女が、あの人が笑ってくれたらいいと、ピアノを弾いた


「そうか」


水森は満足したように笑った。



口の悪い音楽教師とその生徒




Varlations and Fugue on a theme of Hendel Op.24,1 by Brahms

Beyond the sea by Bobby Darin

20110613








オマケ
先生が来る前に交わされた会話


「ねね、少年。普通じゃないって映画知ってる?」

「…来てそうそうなんですか」

「まぁまぁ。キャメロンさんとユアンさんが若い頃の映画で、2人が歌ってる曲なんだけど」

「……ちょっと分かりませんね」

「んーあとユーガットメールとか、何かのCMでも使われてたかなぁ…あ! あとニモのエンディング!」

「(それだけ分かっててなんで曲名知らないだろ)…なんとなく分かりましたよ」

「ホント!?」

「コレじゃないですか?」



「そう! その曲! ね、少年、全部弾いて?」

「…仕方ないですね」

「やった! ありがとう」



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