『水の戯れ』(原題 Jeux d'eau)、フランスの作曲家であるモーリス・ラヴェルが1901年に作曲したピアノ曲。形式はソナタ形式に近い循環形式。
この曲はリストの『エステ荘の噴水』に影響を受けたと言われている。ラヴェルは制御された噴水のような水の美しさを大胆かつ繊細な手法で表現した。それが『水の戯れ』である。





課題に出された曲を頭の中で整理する。暗譜は出来てるから楽譜はいらない。ただ、正確に弾けばいい。水が無秩序ではなく、決められた動きによってより洗練された様をイメージして。飛沫さえも表現するように

最初から最後まで淀みなく弾いて一息つくと、後ろからやる気のない拍手が聞こえた


「さーすがー。もう完璧じゃねーか」
「………どうも」


しわくちゃのシャツにボサボサの(本人いわく天パの)髪を持ったこの人は、課題を出した音楽教師の水森だ。口は悪いし態度もデカいが音に関しては(あまり認めたくないけど)一流だ


「褒めてやってんだからもっと喜べ」
「…その必要はないかと」
「おっ前、ホント可愛くねぇなー」
「思われたくもありません」
「そんなだから友達出来ねぇんだぞ」


ニヤニヤと笑う教師はからかってるという雰囲気を隠そうともしないで言った。いつものことだが、この人はやたらと人で遊ぶとこがある

なんでこんな人が教師になれたのか心底不思議だ。それでも僕の問題点を一発で見抜いた数少ない人でもあった


「だが、完璧なのは技術だけだな。音に面白みも何も感じねぇよ」


他の人間が聞けば、天才だなんだと讃えるだろう所をこの人は的確に批評してくる


「水の戯れだっつーのに、お前のは機械の行進みたいだ」


例え技術がどれほど巧くとも、そんな人間は山ほどいる。気持ちが入らなければそこが限界だ


「…お前は何のために、誰のために、ピアノを弾いてんだ?」
「……さあ?」


そんなの、僕が知りたい










旧音楽室の前まで来ると小さくピアノの音が聞こえた。どうやら少年はもういるらしい

遠慮も躊躇いもなしに扉を開けて中に入ると、音が大きく鮮明になった

飛び跳ねるような音、あっちに行ってはこっちに行って。透明でキレイな音色

すごく早いリズムではないけど、少年の手を見るといつもすごくなぁって、私じゃ出来ないなって思う

少年は私が入って来たことに気付いているみたいだけど、手は止めないし目線もくれない。ピアノのそばまで行ったって同じ。毎回のことだから慣れたのかもしれない、私も少年も。だから私はピアノの音が終わるまで大人しく待っていた


「キレイな曲だねぇ」


ピアノが鳴り止んで、私は拍手を交えて感想を言った。多分(てか、絶対)少年はそんなのいらないんだろうけど、言いたいからいいの。でも専門的なことは何も分からないから、キレイとかすごいとかしか言えないんだけど


「………どうも」


ピアノから一切目をそらさずに少年は言った。見る、と言うよりも、睨む勢いだ。無愛想なのはいつもだけど、今日は機嫌が悪いみたい。残念、きっと今日はリクエストを聞いてもらえないな

とりあえずリクエストは諦めよう。その代わりに少年が弾いていた曲のことを聞こうかな

そう思って、私は口を開いた


「ねぇ、少年。さっきのはなんて言うの?」
「……ラヴェルの、水の戯れです」
「ふーん」


聞いておいてなんだけど、ラベルって何? 水のたわむれってどういうこと? って感じだ。本当ならソレも聞きたいんだけど、止めとこう(バカにされるのは目に見えてるからね)。だけど、もうひとつだけ

どうせこっちを向いてくれないのは分かってるから、少年の端正な横顔を見ながら聞いた


「その水のたわむれ? って曲は悲しい曲なの?」
「…はい?」
「だってなんか淋しそうに聴こえたから」
「…!」
「え? 違った?」
「………」
「少年…?」


ほんの少しだけ肩を揺らした少年はそのまま固まったみたいに動かなくなった。頑なな心情を表すみたいに横顔が険しい。もしかして、地雷を踏んだ?

微妙な沈黙が流れた

俯いていた少年が僅かに私の方に顔を上げた。追い出されちゃうかもしれないな、なんて思いながら少年の言葉を待った


「……どうして、淋しそうだと思ったんですか?」
「…え? あ、えっと、」


まさかそんな聞き返しが来るとは思ってなくてびっくりしてしまった。でも少年は誤魔化そうとも、からかってるでもなく、どこか諦めているみたいで。分かりきってる答えを確かめるだけ、みたいな

少年は、そんな悲しい顔をしてるって自覚あるの?

焦りが一気に引いて、残ったのは誰のかも知らない、感傷


「……なんでかは、私もよく分かんないけど。…なんとなく、少年のピアノは淋しそうだから」


実はコレは少し前から思ってたことだ。少年はいつも淋しそうにピアノを弾く。悲しいのでも辛いのでもなく、淋しそうに。そうじゃない時もあるけど、多分、根本には変わらない淋しさがある、気がする

ピアノを、少年のことを何も知らない私が言うべきではないかもしれないけど、聞かれたから答える。それだけだ


「理由も何もない、ただ、私が思っただけなんだけどね………たまに淋しそうな顔をして弾いてるから…」


けれど、ここまで言う必要はなかったかもしれない。言ったあとに思ったって今更だけど、少年が痛そうに顔を歪めるのが分かってしまって思わずにはいれなかった

でもそれは、本当に一瞬で消えてしまった


「………そう、ですか」
「少年…?」
「…先輩がそんな風に人を見てたなんて驚きです」
「ん?」
「鈍いわりには空気読めるんですね、意外です」
「んん?」
「でも僕は淋しさなんてこれっぽっちも持ってないんで。心配には及びませんから」


それで今日は何を弾きましょうか? なんて、普段なら滅多に聞かないであろうことを当たり前みたいに聞いてきた


「弾かなくていいんですか?」
「え? あ、や、弾いてほしい曲あるの!」
「それは?」
「博士が愛した数式って映画知ってる?」
「はい」
「それでね、最後に博士とルートが海にいる時に流れる曲が聴きたいの」
「ちょっと待ってください…」
「……思い出し中?」
「えぇ……はい、思い出しましたよ」
「弾いてくれるの?」
「…気晴らしに、です」


口元に小さく笑みを乗せて、それを消すように真面目な顔をして少年はピアノを弾き出した


ピアノの音色は優しい
泣きたいくらいに優しい

優しくてやさしくて、淋しい


途中から誤魔化されたことに気付いたけど、何も言えなかった。少年の目が聞かないで、と言っているように思えたから

それにピアノを弾いてくれるだけで、私は嬉しいから


「それでも……私は、少年のピアノが好きだよ」


音に忍ばせて言ったから少年には届かなかったかもしれない。それで良かった。だって私の自己満足だから


「少年のピアノはすごくキレイ」


少年が何を思ってピアノを弾いてるかは知らない。それでも私にはやっぱりキレイに聴こえるから、私は少年のピアノがすき。ただ、それを知っていてほしかっただけ


「私は少年のピアノがすき」



(その言葉がどれほど僕を救っているか、彼女は知らない)




Jeux d'eau by Ravel

博士が愛した数式 movie by 小泉堯史

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