世界が揺れている。ぐわんぐわんと酷い耳鳴りが脳内を駆け巡って意識が侵されていくのを感じた。元凶は分かり切っている、先日訪ねた出張先からもらって来たらしいウイルス。畜生地方なんかに行くんじゃなかったあの時の俺はどうかしていた。
そいつに抵抗しようと体中の細胞が総力を挙げて勇敢に戦っているらしいが、そのせいで体力が著しく低下しているのも確かだ。
呼吸をすればヒューヒューと喉が鳴り、血を吐くかもしれないと思うほどの咳が出る。大人しくしていればその分倦怠感が増し、寝ている事すら苦痛である。正直、心身ともに限界が訪れていた。

(…くそー、リア充爆発しろ…あー死んじゃうもうだめだみんなバイバイあはは)

ああ、もう俺はダメかもしれない。今まで生きてきた中で、自販機を投げつけられても往来の中でぶっ刺されてもヤクザと繋がって例えヘマをしても何をしても何をされても死ななかったこの俺が。情けないなあ、と一人失笑する。
だが笑った瞬間にゴホゴホと大きな咳が始まり止まらなくなった。酸素を吸うだけで咳が出るなんてもはや死ねってことじゃないか。
…あ゛ーだるい。

「――誰か、居てくれてもいいじゃないか…」

波江も「ちょっと出るわよ」と言ったきり帰ってこない。携帯で、マンションのドアが施錠されてから一時間は経っている事を確認した。自然とため息が漏れる。
人恋しいってこういう事を言うんだろうなあ、俺はいつでも人に恋するどころか人を愛してるけどねえ、などとぶつぶつ呟いていると、突如オートロックのドアが開く音がした。思わず布団を撥ね退け飛び起きる。
直後「ただいまー」と女の声が聞こえた、が、それは波江の物ではなかった。

「臨也風邪引いたんだってー?あんた昔から病弱よねー、ちゃんとご飯食べてる?」
「…え、何で居んの」
「え、あんたが呼んだんじゃない」

台所借りるわよ、そう言ってリビングに入って行く姿を凝視しながら、重い体を引きずって玄関まで出向いた事を後悔した。頭痛が先程よりも大分酷い。
袋から大量の食材を取り出しながら唸っている様を睨みつけても効果は何もない。仕方がないからせめてもの余裕を取り繕うために、今の体力で出来る精一杯の嘲笑を見せるしかなかった。

「呼んでないし。と言うか…そもそも、シズちゃんの彼女がその天敵の家に乗り込んでくる時点でおかしいでしょ、普通。全く、昔から思ってたけど、君もシズちゃんもほんっとにバカだよねえ。怪物の彼女はやっぱり似た者同士なのかなあ?だから脳ミソも豆粒ぐらいしかないんじゃないの?ねえ」

どうだ。ここまで言ったらさすがに腹立つだろう。だから帰れ。
荒い息遣いを隠しもせず、時折咳込みながら相手のリアクションを伺った。だが目の前の女は冷やかとも無表情とも取れる表情を浮かべたままこちらを見つめて動かない。
さすがに言いすぎたか、と不安になったその時、そいつはやっと口を開いた。

「あんたなんかノミ蟲じゃない」

「…は?」
「怪物に比べたらただの蟲なんて踏み潰せば終わりでしょ。潰されたくなかったら大人しく寝てなさいよ」

ほら早く巣に帰れ繭にでも入ってろ熱湯で茹でてやるから。
彼女はここに来てから一番人間臭い表情を浮かべ、しっしっと俺を手で追い払った。…まさかのリアクションに脱帽だ。女としてそれはどうかと思う。
でもこいつがもし普通の女のように泣き出すとか飛び出していくとか言うリアクションを取ったとしたら――、俺は彼女を嫌悪したままで終わっていただろう。

なんてこった、今まで俺は俺の中のその想いを直視しないよう、幾重にも鍵をかけ鎖を巻いてずっと避けていたと言うのに。そんな顔をされたら認めざるを得ない。
彼女は人間だ。紛れもない。イコール、俺は彼女を愛さなければいけない。
今まで怪物のツレだメスだなんだと人としての存在を遠ざけてきたのに数年間に渡る努力がパアだ。

俺は彼女を愛しているのだ。でもそれは許される事では無くて、だから天敵と同じ「怪物」として嫌悪したフリをして。
辛かった。本当は彼女を人として愛したかった。出来る事ならそれ以上の存在として。でもそれは叶う事のなかった願いだった。
そう、「だった」のだ。
これからはもう違う。俺は俺なりのやり方で彼女を愛す。これはもう決定事項だ。あの怪物に牙を剥かれようと知ったこっちゃない。
あはは、なんて愉快な茶番だったんだ。

「…何笑ってんの、気持ち悪いわよ」

またもや人間臭い表情を見せてくれた彼女に微笑んで、とりあえず抱き締めるところからやってみようとふらつく足取りで一歩を踏み出した。

101018
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -