水槽から飛び出した金魚



自由を手にする為に翼を得、果てなく広がる空を選んだ鳥と人に浸食されつつも海にそれを求めた魚とではどちらがより幸福な一生を手にしているのだろうと放課後の二人だけを残した静寂の中に一縷の淋しさを含んだ教室にて窓側の席を陣取り、開け放たれた窓から吹き抜ける一陣の風に肩まで伸ばされた髪を遊ばせ、憂いを帯びた容色に軽く握られた右手を柔らかそうな頬に添え、青の絵具を水の張った透明な容器に溶かした様な空とその後部に在る棚の上に置かれた金魚鉢とを先程から忙しなく視線を往来させている彼女からの問い掛けに俺は何の答も導き出せぬままに彼女の横顔を見守っていると彼女は不意に振り向き、不平そうな顔を寄越すと「ねぇ、私の話聞いてる?」と今度は俺自身に対しての問い掛けをくれた。俺はその返答には応じずに「どっちって……どっちもどっちなんじゃねぇか?」と尤もらしい答を返すと「つまらない」とより一層不満そうな表情を隠す事もせずに一掃した。俺は彼女の不理屈な反応に負けじと不満を表していたらそれを見た彼女は「怖い顔が一層怖くなってるよ」と又もや癇に障るような事を言ってしまってから視線を俺から外し、空と金魚鉢とを飽かずに往来させた。俺は彼女の隣の席に腰を下ろし、何故彼女がその様な質問を俺にしたのかを考察するよりもそこに寄せられた自身の情を思案していた。
人間同士とて幾ら心を砕いたとしても通じ合えないものなのにそれが他の言葉も通じぬものの心情など解りはしないだろう、例えば彼女を悩ませるある事情も、例えば彼女と俺とてそれは変わらないだろう。誰も彼女にはなれないし彼女は彼女のものであり、傍に居る者は彼女の心情を自身の感覚を持って察してやる事しか出来ないのだ。それは血の繋がりが有る者も同様で、その温度差の様なものに孤独と孤立を感じてしまうのだろう。孤独を感じれば際限なき不安が身を包み、それを掃おうと最も遠い者に理解ではなく温もりを求め、或いは同じ境遇の者と傷を舐め合う様に寄り添うのだろう。若しくは孤独を表層だけ受け入れ尚も孤立する道を選ぶ者も有るだろう。斯く言う俺の眼前に居る彼女も前者の二つに値し、時に返答に困る様な質問を投げ掛けては興味を自身に向けさせ、他者との触れ合いの中で愛情を得、次第に陰り始めるそれらのものから逃避しているのだろう。そして幼少の時分より彼女との繋がりが有る俺に対しては何気ないやり取りの中で自然と治癒されていくのだろう。それを彼女が感知しているのかは定かではないが少なくても俺は彼女と居る事で治癒されている様に思う。互いにある一定の距離を保ちながら並行して歩んで来れたのは同じ境遇に身を置きながらもそれを嘆く事も卑屈に思う事も決してないのだと、あの時俺が自身に対しても戒めの様に彼女に言い聞かせてきたからだろう。しかしその事が今の彼女を作り上げているのだとすれば、俺は彼女に対して後悔の念しか抱けないのである。他の者に対しては割と素直に心を許している様に見えるが俺に対しての彼女の態度がある意味素直で、ある意味に於いては隔心した底に在る意を多種多様な謎かけを用いて俺に解かせ様と、理解させ様としている節が見受けられるからである。それは彼女なりに俺を頼り、甘えてくれているとも解釈できるが応えられずにいたり一般常識で応戦しようとすると今の様に不平顔を寄越し、一日不機嫌になってしまうものだから一々宥める俺の辛苦を彼女こそが理解して欲しいと思うのである。それに加え、何とも形容し難い様な表情を寄越すものだから始末が悪い。在る筈の愛情を手に出来ない子供の純粋で愚直なまでの瞳をくれるのである。そうなった時に俺がしてやれるのは彼女を抱き締め、只ひたすら謝る事しか出来ない自身の非力さと恋人でもないのにこの様な行為をして果たして良いものかと言う気遣いとが入り混じった何とも感触の悪い心持になるのだ。その様な事を延々と思案していたら先程まで俺の隣の席に居て空や金魚鉢を眺めていた彼女の声が目の前で聞こえ、驚心して俯き額のところで組まれていた手を降ろし、顔を上げると彼女の整った白い顔が現れたので思わず声を上げそうになっていると「大丈夫?熱でもあるの?」と俺の額に右手を置こうとするその手を拒み「いや…考え事をしていただけだ」と言うと彼女は「ふーん」と心底興味なさそうな、拗ねる様な表情を寄越すと俺から視線を外し、又空を眺めた。

「なぁ、」
「何よ、可愛くない土方君」
「何だよ、その可愛くない土方君ってのは。気持ち悪いから苗字に君付けで呼ぶの止めてくれ」
「だって可愛くないんだもん、それに他人みたいにあしらった罰よ」
「他人みたいにって……別にそんなつもりはねぇよ、何年お前と一緒に居ると思ってんだ?」
「土方君こそ私を長年連れ添った夫婦みたいな形容の仕方、しないでくれます?凄く気持ち悪いから」
「ばっ!俺だって気持ち悪ぃよ!お前と夫婦だなんて」
「私だってお断りよ、あんたと夫婦だなんて。それに無駄に頬を染めないでくれます?気持ち悪い、何かとっても気持ち悪い」
「うっ、うるせぇよ!お前が変な事言うからだろうが!」
「馬鹿土方」
「泣き虫みよじ」
「何時私が泣いたって言うのよ?」
「いっつも何かあると俺の許に泣き付いてくる奴がよく言うぜ?」
「沖田君の呪いに掛けられろ、土方」
「お前こそ総悟とくっついて一生苦しめ、馬鹿みよじ」

幼少の時分より常に一緒に在り続けた俺達は傍から見れば幼馴染と言うよりは恋人として見られる事の方が年を重ねるに連れて多くなった。小学生の時は只、仲の良い友人として認識されてきたが中学高校ともなれば自然と恋情も生まれてくる様になり、異性としての俺達を俺達自身より周りが好奇な眼を向ける様になった。それも作用してか小学を上がる頃にはそれまでの名前ではなく苗字で呼び合う様になったが、気を抜けば、或いは二人きりで居る時などは名前で呼び合うと言う周囲に変な誤解を生まない様に対処してきた。苗字で呼び合う様になった当初は互いに違和感を覚えていたが、今では慣れてしまって名前で呼び合う事の方が稀であった。時が経過するに連れ俺と彼女との間に本来ならば無用な決まり事が増えていったが、人前で名前を呼び合わないと決めた時、彼女はその事に対して「何だか超える事が出来ない隔たりが出来たようで哀しい」と呟いていた。それは今日まで兄妹の様に在り続けた俺にも同じ感傷を与えた。血の繋がりがない事をまざまざと眼前に示された様な、各々の家族よりも理解し合えた絆と時間を他者が土足で踏み入れてその糸を無理矢理にでも断ち切る様な、そんな印象を与えていた。しかし俺は彼女に対して「そんな事はない、俺達は何が有っても繋いできた時間と心は容易には崩れない」と言ったが、この先の未来を想像すると何故か絶望にも似た感情を抱く様になっていた。それは個別に与えられた性により何れは他の者と生涯を共にし、積み重ねてきた時間も心も無になる様な、一体として在り続けた身体が切り裂かれる様な、そんな苦痛にも似た感情が日に日に心中に一種の雨雲の様に影を落とす様になっていった。付き合った相手が理解有る者であっても自分以外の異性と仲良くされるのは心持が良くないだろう。ならば異性として認識し、正式に恋人なり夫婦となれば良いだろうと言う輩も居るだろうが俺と彼女との関係はそれ程簡潔なものではないのだ。互いの事を知り過ぎている故に意識しにくく、又「何を今更」と言う照れもそもそも性別を超えた先に有る同士の様な感覚が有るのだ。環境も男女の差もない同等な存在なのだ。それを理解し合っている俺と彼女は同じ傷を互いに治癒しながらも彼女は他の異性に心を寄せ、俺はそんな彼女の友人として関係を保って居るのである。事ある毎に彼女は俺に「そんなにモテるのにどうして彼女を作らないの?」と聞いてきたが俺よりも情緒豊かな、あえかな彼女が気掛かりな俺は何時も「お前が他の野郎と結婚するまで彼女は作らねぇよ」と答えると、彼女は「何よ、それ」と言って只只無邪気に笑っていた。そして今の彼女を無意識に支えているのが総悟なのだ。
総悟と彼女との出逢いは俺が小学生の時分に同じクラスであった近藤さんと出逢い、仲良くなりその次に総悟と仲良くはないが俺を含め三人でつるむようになって放課後には別クラスに居たなまえを紹介し、それからなまえは何時の頃からか総悟に心を寄せる様になったのだ。なまえは直接俺に総悟に気が有るのだと告白した訳ではないが、総悟と居る時の彼女の表情を見れば一目瞭然であった。相手が相手なだけに多少の不安は有るのだが、それでも彼女が笑顔で幸福を感じているのであれば、俺は総悟に頭を下げてでも彼女を幸せにしてやってくれと懇願する事さえ厭わない。総悟も俺から彼女の境遇を聞いているので然程、乱雑な扱いはしないだろう。総悟が彼女を受け入れさえすれば、この胸を曇らせる靄も何れは晴れてくれるだろうと、その様な期待を持っているのも一理あるが。

「…で、さっき何て言い掛けたの?」

彼女は俺の眼前に有る机の上に両肘を付き、不思議そうな面持ちで視線をくれていたので俺は一瞬眼を伏せ、先程まで夢想を漂っていた意識を手の中に収めると彼女が欲しがっている問い掛けに答を返した。

「さっきお前、空に自由を求めた鳥と海に自由を求めた魚とではどちらがより幸福な一生を手にしているのだろうと俺に質問したろ?」
「何だ、ちゃんと聞こえてたんじゃん」
「俺には鳥も魚の心情を察する事も理解する事も出来ねぇよ。だけど、限られた環境の中に居てもそれを受け入れ、そこに散らばっている幸せを感知出来れば幸せと思えるんじゃねぇのか?」
「じゃあ土方は今、幸せと実感できている?」
「俺は何時も満たされているよ、お前みてぇな厄介な荷物抱えながらも幸せだと感じている。お前はどうなんだ?」
「私は……土方が居てくれたから幸せだと思える様になったよ。そこら辺に散らばっている幸福を当たり前のように感じる事なく、特別な事なんだと思える様になったよ」
「そうかい、そりゃ何よりだ」
「私ね、本当に感謝しているの。土方が私の傍に居てくれる事を、土方は私にとって空で有り海で有ったの。土方が傍に居てくれたから私は束の間の自由を手に出来たのだと思うの」
「だけど、これからはその役目を果たすのは俺じゃねぇよ。お前が一番それを解ってんだろ?」
「何よ、それ。どう言う意味?」
「お前、総悟の事が好きなんだろ?」
「なっ…!」
「俺が気付かないとでも思ってたのかよ?」
「……」
「これからは俺に頼るんじゃなくて総悟に頼れ、あいつも喜ぶだろう」
「トシ……」
「俺に無用な情を寄せるな、俺達はそんな仲じゃねぇだろ?それにお前よか精神的に弱く出来てねぇよ」
「ねぇ、若しも違う出逢い方をしていたのなら、私達はきっと互いの傷を舐め合う事も淋しさを恋と履き違う事もなかったのかな?」
「…俺は仮定の話など嫌いだ、それに俺は今の関係に満足している。お前も俺に何時までも依存出来ねぇだろ?」
「トシ…見て、あの金魚鉢を。あんなに窮屈そうにしているのにそれでも不満げな顔一つしないの、私達はあの金魚に似ていると思わない?互いに依存し合って窮屈な筈なのにそれでもそこから脱する手段すら知らないの」
「約束したろ?互いに恋情だけは寄せ合わせないと、それにそれは只の惰性だ。満足に愛情を注がれる事がなかった俺とお前が一緒になったところで幸せになれると思うか?お前が求めているものも俺が求めているものも端から持ち合わせていねぇんだよ、俺達は。愛されたいと願うのなら他の者を選べ」
「そうしたらあの金魚はその水槽から飛び出し、自由を得られるの?」
「未知に恐れを抱くのは一瞬だ、自由になろう。俺もお前も」

程遠い幼少の時分より俺と彼女は常に一緒に居た。俺には本当の家族と言うものがなく、親戚を盥回しにされ行き着いた先がなまえが居る里親の家であった。未だ幼かった俺達は直に仲良くなり色んな話を語り合った。その中で知った彼女を取り巻く環境とは両親が早くに離婚し、新しい父親が前夫の連れ子で有ったなまえを執拗に虐待していたのだった。その後、両親に子供が授けられなかった為に俺が招き入れられる形となったが、それは前夫の忘れ形見であるなまえに対しての当て付けでも有ったのだろう。里親は事ある毎に俺を可愛がってくれたが一方、なまえにはまるで他人の様な態度を取り続けていた。他人と言うよりは在ってなき様な扱いを受けていたのだ。食事の時も彼女だけ自室で摂らせ、外出の時も彼女だけ自宅に待機と言う事が多々有ったのだ。俺は子供ながらに何故このような不平等な扱いをされているのだろうと思い、里親に食って掛かってからは俺も彼女と同等な扱いをされる様になった。
俺と彼女は昼夜を問わず、二階建ての僅かなスペースに設けられた小さな天窓付きの屋根裏部屋で大半を過ごす様になった。昼は区切られた空を見ながら将来の事を語り合ったり時折、眼前を悠然と通り過ぎて行く鳥に自身を映したりしていた。そして夜は星を眺めながら次の朝、目覚めたならば全ては悪い夢で優しい両親に与えてもらう事がなかった愛情を注いでもらう、そのような空想を語り合っていた。その中で交わした約束は将来、互いに別々の相手と結ばれ、何れ子供を授かり、近隣に同じ様な家を建て、そうして同じ様に年を取っていくと言う何とも子供らしい夢を抱いていたのである。俺と彼女は血こそ繋がってはいないが本当の兄妹の様に育ってきた。それは小中と互いを異性と意識しない中ではとても心地が良かったし、それに何の不満も疑問も抱かずに居られた。しかし思春期を迎え、互いを異性だと改めて認識する様になってからはそれが急に窮屈に、様々な痛みを持ち出す様になっていった。俺がなまえに向ける感情も彼女が俺に向ける感情もそれが愛だと言えるのだろうか、それは淋しさと精通し合っていると言う安心感から来るものではないのだろうかと互いに自問自答する様になっていったのだ。そして若し仮に恋慕だとしても、それは互いを傷付ける事にしかならないのではないのだろうかと思う様になっていたのだ。彼女が言う様に若しも違う出逢い方をしていたのなら何の迷いもなく彼女を懐に取り入れ、生涯彼女を十分な愛情を持って幸福を与える事が出来ただろうが、それは所詮叶わぬ夢、幾ら手を伸ばしたところで砂を掴む様なものなのだ。若しそれを望むのなら来世にそれを託すしかないだろう。
あの金魚が金魚鉢から大海へと逃れる事が出来たなら、若しくはそれ以前に命を落としてしまったのなら俺と彼女は真の意味で自由を手にする事が出来るだろう。心を隠し、他の相手を迎え別々の人生を歩んでいく事になるだろう。




title:アメジスト少年






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