03_side 瑠禾


「体に異常はありませんので、少し様子を見ましょう。日常に戻ったら自然と思い出すかも知れません」

翌日になっても唯の記憶は戻らなかった。
記憶喪失なんてかなりの重症だと思うのに、医者は退院していいと言う。
唯は本当に何も覚えていなかった。
言葉は分かるし物の名前も分かる。
しかし自分の名前も親の事も、トロイメライの事も覚えていなかった。
もちろん、俺の事も───。
本当は親元に帰すべきだとみんな分かっていた。
それでもそれを誰も言い出さなかったのは、みんな望みを捨てられなかったからだと思う。
もう一度まばたきをしたら思い出すかも知れない。10分後、1時間後には───。

唯はまるで出会った頃の彼女のようだった。
目を見て話をするが、体は少し緊張したようにこわばらせていて、人を気遣うように優しく笑う───。
唯は唯のままなのだ。
(でも、俺だけに向けられていたあの笑顔は、どこにもない)
俺は唯に、どう接したらいいのか分からなかった。


「婚約者・・・?」
俺を見て驚いたように目を見開く唯に胸が苦しくなる。
「そう、ここに居る瑠禾ちんが唯ちゃんの婚約者」
昨日から記憶のない唯がなるべく混乱しないように、少しずつ情報を与えているのは櫂だ。
「唯ちゃん、自分の家も分からないんだよね?」
「・・・はい。すみません」
「いいのいいの謝らないで?瑠禾ちん、やっぱり唯ちゃんを一人にするのは心配だよ。瑠禾ちんの家に連れて行った方がいいんじゃないかな」
「・・・・・・」
(連れて帰って・・・どうすればいい?)
俺はまだ唯とまともに話せていなかった。
唯の目の中に、唯の知らない俺が写るのが怖くて───。

「瑠禾」
しっかり、と言うように櫂の声が俺を呼ぶ。
確かに今の唯を一人にするわけにはいかない。
俺が連れて行った方がいいのも分かる。
(でも、唯にとっては誰でも同じなんじゃないか?だけど他の誰かの家に行かすわけにもいかないし・・・)

「・・・行くよ」
俺は荷物を持つと、唯の方を見もせず病室を出た。










唯が俺の車のシートベルト位置すら忘れている事に、絶望的な気持ちになった。
(本当に、何一つ、俺に関係する事は覚えてないんだ)
俺はどうしたらいいのか分からなくて、無言で車を走らせる事しか出来なかった。



当然唯は俺のマンションのロック解除のやり方も覚えていなくて、それにまた絶望しそうになるのを俺は唇を噛みしめて耐えた。
「全部好きに使っていいから」
そう言ってリビングを出て行こうとする俺を唯の声が引き止めた。

「瑠禾さん」
「やめて」

思いの外強く出てしまった自分の声に驚いた。
「・・・みんなも、さん付けなんてしたら、嫌がると思う」
俺はなんとかそう言うと、唯を見ていられなくて背を向けた。
(どうして、唯まで、そんな顔してるの)


それから俺はひたすらピアノを弾き続けた。
トロイメライの曲には唯が居る。
少しでも俺の知っている唯を感じていたかった。



静かに扉が開いて、遠慮がちに唯が入ってくるのが見えた。
(───まるで唯みたいだ)
実際、彼女は唯なのだ。
記憶がないだけで、姿形は間違いなく唯だし、歌った声は分からないが少なくとも話す声、話し方やその内容だって唯そのものだ。
(彼女が、俺の知っている唯だったらいいのに)
ぼんやりそんな事を思っていると、唯の歌が聞こえた気がした。
(──あぁ、俺の好きな声だ)
幻聴でもいいからその声をもっと聞きたいと耳を澄ますと、驚いた事に唯は本当に歌っていた。

(唯。間違いなく唯の歌だ。なんだ、トロイメライの曲を聞かせれば良かったんだ)
今すぐ唯を抱きしめたいと思った。
けれどこの歌声をさえぎるのがもったいなくて、俺は曲が終わるまで弾き続けた。



「唯!!」
唯に駆け寄り手を伸ばしたが、その目は俺を知らない唯の目に戻っていた。
俺は唯の腕をつかめずに、宙に浮いた自分の手をじっと見た。
「私・・・この歌知ってる・・・」
俺はまた絶望しそうになっていたが、そうつぶやく彼女の声は、初めて俺たちと音が合わさった時のように喜びと希望に満ちていた。

 
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