小説 2 | ナノ

 心底安心し、個室で盛大にため息をついた。その吐息の漏れる声が壁の向こうに聞こえぬように、僅かに震える腕をさすり渦巻いて流れていく水をぼんやりと眺める。ずるずると扉にもたれ掛かり泣き出したい気持ちでいっぱいだったけれど、そんなことをしていては、私の不振に彼は気づくはずだ。
 表情を変えずにお手洗いからリビングに戻れば、薄ら笑いが目に付き、ゆっくりと視線を上げれば真ん丸な目が私を嘗め回した。僅かにあげた口角に、全く表情の読めない目つきは実にアンバランスで気味が悪いと思う。そうして鼻を引くつかせて、もう少しだけにったりと笑い、笑顔を私に見せた。

「なんだ、生理きたの?」
「え……なんで、分かったの」
「血生臭さには敏感だからね」

 もしかして、隠してるつもりだった?私をまともに見もしないで、横顔に張り付いた笑みはひどく冷徹に思えた。彼女の生理周期を把握している彼氏はわりと多いだろう、自分で生理周期を把握できていないような女と付き合うというのも危険である。その点に関しては問題の無い関係だった。
 ただひとつ私たちの間を仲介した出来事というのは、世にも奇妙な物語の題材にしてしまえば至極つまらないようなもので、しかし現実に起きた身としてはかけがえの無い苦痛と、苦悩と、苦行に横溢を重ねに重ねた出来事だった。
 私の生理が無事に来たことを確認した彼は、この後おそらく私を寝室に引きずり、またいつものように恐ろしい言葉で蝸牛を苛め抜くのだろう。彼の声は、ひどく恐ろしい。吹き込まれれば、それに逆らうことは出来ないし、考え抗うことすら無駄な行為であるのだと思い知らされるような、しかしながらそこには悦が入り混じり、深く手の届くはずも無い光も見えない深海に溺れるような気分にさせてくれる。その深海から浮上するまでに、長い時間がかかるのに、やっと浮上できたと思いきや再びその声を吹き込まれ崖から突き落とされるような感覚に陥るのだ。

「俺の赤ちゃんが出来るまでは、やめないから」
「やだ、神威……はぁ、んっ」
「約束だろ?……ねぇ、忘れたりなんてしてないよね?」

 打ち付ける腰を止め、恍惚とした顔で私の頬を撫で、親指で唇に触れ目を見て私に話しかけているはずだというのに、その目の奥に見えているのは明らかに私ではなく、彼の理想だけであった。彼の目に、私はまったく映っていない。その証拠といっても言いように、私は彼のいろんな性癖に付き合い続けているというのに、彼女であるというのに、唇の感触だけは知らないのだ。肌のあちこちに触れた唇は、どうしても私の唇には触れてはくれなかった。満足にイくことも出来ない理由はこれにあるのだろう、もちろんそんな女々しいことを考えているのは私だけである。



 見てはいけないものをみてしまった。地球人からしたら人殺し以外のなんでもないことを仕事としている彼の職人の一面を、たまたま目撃してしまったその日から、私の環境はすっかりと変わってしまった。あの時の彼はひどく興奮していたおかげか、私の存在にすぐに気づき近寄ってきた。あまりの恐怖で微動だに出来ないでいる私の頬をさっきのように撫でれば、赤くかすれたモノが付着している。君と俺の子なら、きっと強くなりそうだ。何を根拠にそんなことを口にしたのかは分からないものの、今こうして神威の彼女として生活をしている。馬鹿な発言をすればすぐに殺されるのだろう、何も言わずにいると頭がいいねと撫でられた。あれだけ酷いことをしたくせに、その手つきだけは妙に私の頭に馴染んでしまったのだ。
 それでも心から神威を愛しているかと言われれば、私は口ごもり考えることすら出来ないのだろう。きっとそれが答えだ。すぐに首を縦に触れない理由というのはたくさんあるのに、それを口に出せるような状況ではないのだ。きっと神威も同じだ。心から私を愛してる?なんてことを聞けば、そんな馬鹿げた質問するような子だと思わなかったと言われた直後どうなるかも分かりはしない。
 これが、前回会いに来たときの話だ。



 私の顔を見に来るのは、二ヵ月半に一度といったぐらいだろう。基本的に宇宙で団長なんかをやっている彼はああ見えてけっこう忙しいらしい。見た目こそ地球人と代わりはしないのに、その本質は地球人の力なんかを遥かに超越する夜兎族の一人だ。話を聞かされたときはまるでおとぎ話のように夢うつつで、最近やっとその現実を受け止められるようになってきた。
 そうしてあの恐ろしい力を持つ男の女に半ば強引になり、彼の言う約束というものを果たすために生きているような状況だった。彼の職人の顔を見てしまった私の救済方法というのはそれ以外には無いらしく、いつかいつか身篭る嬰児の顔を私は喜べば、悲しみ見つめればいいのか分からずにいる。受胎告知を喜ばない母親がどこにいるのかと悟られれば私にも反論の余地はある。そもそも式なんてものも挙げていないし、両親や友人との関係だって、あの日以来途絶えるほか選択肢が無かったのだ。結婚もしない男女の間に産まれた非嫡出子の扱いは、身内から特に疎まれる立場になりかねないというご時勢であることには変わりない。

「や、元気にしてた?」
「神威……」
「なに、もの欲しそうな顔して。俺もお前との子供が楽しみだよ」

 頬に触れる手はそれこそ血生臭い気がする。それでも頭を撫でる手つきというのは私の理想そのものだった。抱きしめてもくれる、それこそごく普通の恋人らしいことだってしている。それでもどうしても無性に死んでしまいたくなるほど不安になるのは、キスだけは絶対にしてくれない彼の行動にあった。その行為がある無いで、私は言葉に表せられないほどの不安に襲われる。

「ねぇ、お前は俺のことを、愛してくれてるの?」
「あい、してるよ。ちゃんと、とても」
「あっそう。じゃあ今更約束を破ってくれたりなんてしないよね?」

 私はやっと這い上がった直後に、崖から突き落とされたのだ。息も出来ず、水圧で鼓膜がきゅうとして聞こえづらくなったように思えた。こんな質問をされたのは、初めてだった。とっさに口から零れた言葉のぎこちなさは不審を煽ったに違いなかった。
 そうして今回も、何度も水面にたたき付けられる。ゆらゆら沈んでは浮上しを繰り返した。



「じゃあ、またね」
「うん……あの、神威は私のこと」
「何?」

 それ以上は聞いてくれるな。いろいろな顔を見てきたゆえに、そう言ってるのだと直感した。またね。そう返せばよく知る笑顔で玄関を後にする。
 腹立つほどにいい笑顔で私の家を後にした直後、どうしようもない憎悪がふつふつと湧き上がる。そのくせに、それが愛憎の割合を増やしていることに気づき一人咽び泣いては笑うしかなかった。止まらない涙のせいで瞼が腫れ上がり、薄い皮膚がヒリヒリと痛んだ。玄関で毎度こうして泣き崩れては、どうしてどうして、彼はもっと普通に私を愛してはくれないのかと、私に何が足りず何に不満を持ちどこでその埋め合わせをしているのかと、本当は胸倉をつかんで全て吐かせてやりたい気持ちでいっぱいだった。何よりもうそろそろ回避でそうにないその約束どおりに受胎告知を受けたあと、私はどうなってしまうのかも分からない。人の心が、彼にはないと分かった瞬間だった。むき出しの憎悪が腫れ上がり、その腫瘍がいつ爆発し墓穴を掘ってしまうのか。もういっそのこと、馬鹿な言葉を返し彼と邂逅してしまったあの日に死んでしまえばよかった。
 声にならない叫びがか細く零れた後、どうしようもない、吐き気に襲われた。

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