小説 2 | ナノ

ぬるいお湯をはった浴槽でまるくなる。じわじわと痛んでくるのは苦手だから、目はぎゅっとつむってひらかない。息をはくと、顔の上にかざした手の、指のあいだをぷつぷつと泡が通り抜けていくのがわかる。いつか同じことをした海のなかは、今以上に、もっと窮屈だった。広さのことなんかじゃなくて。


「死にてぇのか!?」

ぐっとわたしの腕をつかんだ彼の手は、水に濡れて光に反射して、きらきらと光っていた。それでいて、ひやりとしている。げほげほ咳き込みながら怒鳴った彼の方が死にそうだと半分思いながら、返事もできないほど苦しくなっていた息を整えた。口に入った海水のしょっぱさが、ゆっくりと戻ってくる。

「すみません」

砂浜についてわたしの一声を聞くのと同時に、がくっと頭をさげて、大きく息をはいた彼は、わたしよりずいぶん子供にみえた。そのくせ、わたしよりしっかりしているようにもみえるのだから気まずいよりない。身長だけは勝てるかもしれない、そう思いながらひとりでに、わたしの腕をつかんだ彼の、どうしても目をひく『鋼の』手を見つめていた。頭に浮かんだのは、迷いもなくあの名前だ。

「鋼の錬金術師さん」

突然そう呼ばれたのが不快だとでもいうように、怪訝に眉をひそめながら顔をあげた彼は、やっぱり子供だった。

「…腕」
「ああ」
「人体錬成、したんですか」
「…してなかったら、こうなってたと思うか?」

返事はしない。少し幼ささえ残る顔に不似合いだともいえそうな、代償としてそうなってしまっただろう手も、やはり、きらきらと光るだけだった。

いつだったか、その代償をしらずに、ただもう一度きみに会える希望だと信じていたそれがわたしに与えたのは、少しの錬金術の知識と、その倍ほどの山積みの本だけだった。それらは今ではもう、ひらかれることはなく埃をかぶっている。わたしは、それを、『人体錬成』を実行することができなかったのだ。あとは劣化を待つだけになってしまったあたまに、錬成の知識を詰め込む前に、諦めてしまったから。ならんだ字に吐き気がして、漠然とした虚無感だけが大きくなる。死んでしまいたいと、そうすればきみに会えるのかもしれないと、あのとき、そう思った。

「死にたくは、なかったんですか」

ひそめられた眉は少しも動くことはなく、じっとわたしを見る目に息がつまった。かわきはじめた手の上に、髪から水が落ちてはっとする。

「じゃあ、あんたは、死んだらどうにかなるとでも思ってんの」

彼は動かない。わたしは、動けない。ぼたっ、ぼたっと音がして、手が濡れはじめる。やけになまあたたかいそれが、海水ではないのだと、気がつくのはすぐだった。

「死んで、誰かが帰ってくるわけじゃねーだろ。それって、ただ逃げてるだけなんじゃないの」

まだ濡れる首のそばを通る風が、やけに冷たい。彼の目はもう、遠い地平線の先を向いていた。

「ごめんなさい」

誰に向けてなのかもわからず一言こぼれた懺悔を、頭がおかしいみたいに、繰り返した。(多分、みたいじゃなく、おかしかったのだ。)そうでもしないと、また海に飛び込んで、ほんとうに死んでしまいそうだったから。海水なのか、涙なのか、しょっぱくって仕方がない。滲む視界でも、目の前に彼が立ったまま、わたしのことを見下ろしていることはわかった。

「あんたさぁ、いくつか知らないけど、俺より子供みたいなんだけど」

濡れた髪を覚えている。揺れるコートを覚えている。すっと冷めた声を覚えている。真っ直ぐにわたしを見た、死ぬことをゆるさないとでもいうような、鋭い光を持った目を覚えている。波の音が静かに感じるあの、わたしと彼と、もう会えないきみでいっぱいになってしまった海で、彼の姿が見えなくなってもわたしは泣いていたことを、今でも、覚えている。たった三十分にも満たないだろうあのときのことを、忘れることができない。


息が苦しくなって、お湯から顔を出して目をひらいた。そこはどこを見ても、いつもと同じ浴室に変わりない。

きみに会いにいけないことは分かっているのに、わたしは水中が恋しい。いつだってこうして水中にいれば、あの銀色がわたしを引き上げてくれるような気がしているから。もうそんなことはないのに。彼に感謝しているのか、恨んでいるのか。いずれにしろ、今でもきみではない彼の手を望んでいる自分がどこかにいるなんて、最悪だ。
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