アップサイドダウン
逆138の日に書いたもの 短い
中学のころ、臨也は床運動の授業が得意だった。体の細さも身のこなしも、同年代の男子学生とは比べ物にならない。跳び箱も前転もお手の物だったが、中でも好きだったのは逆立ちだ。腕の間からのぞく上下が逆転した世界は、普段と変わらないはずなのにまるで違うように見えて、その感覚を味わうのが好きだった。高校に入ってからは授業そのものがなかったから、あの逆さまの世界を見ることもなくなっていたのだけど。
久しぶりに見る腕の間の視界は、やはりすこしだけ非日常だった。頭に血が上る、耳鳴りがひどい。ごうごうと風の音が聞こえる。頭の下には果てしない世界。ビル10階分の高さから、変わらない街を見上げる。見下ろせば何の変哲もない、すこしだけ曇った真昼の空だ。雲が揺れているのがわかる。日差しが目に眩しい。
捕まれた足首が燃えるように痛い。仮にも高校生男児の脚を、片手で纏めて掴み取る男にはつくづく呆れ返るほかはない。非常識だと嘆こうにも、そんな男に現在命を任せきっているわけだった。しくじった、としか言いようがない。普段ならこんな真似は絶対にしないのだが、つい先日誰かさんのせいで足をひどく痛めていて、うっかり踏み外してしまったのだ。
この高さで頭から落ちれば、どんなに器用でも流石に死ぬだろう。
あーあ、ともう一度溜め息をついた。ごうごうと風が鳴る。もしかしてこれは風の音ではなく、逆流してきた血の音なのかもしれない。まあどちらでも構わない。どのみち聞こえやしないのに、脚をつかんだ男が必死に何か叫んでいた。馬鹿みたいだ。逆さまの世界より、よほどこの男が奇妙だった。殺す殺すと叫んでばかりいるくせに、いざ本当に死にそうになったら、体を張って助けるだなんて。
シズちゃん、ほんと、馬鹿だよねえ。
開いた左手を必死に伸ばしてくる静雄に応える義理などない。ないのだが、少しばかり霞んできた視界の中にちらりと見えた彼の表情がなんだかとても面白かったから、借りを作ってやってもいいか。そう決めて力の入らない右の手を開いた。
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