OVERBridge


ROBOTさんは、「早朝の橋」で登場人物が「好きにする」、「猫」という単語を使ったお話を考えて下さい。と言われたので書いた

 歩道橋の上から眺めると、道路はずいぶん違って見えるものだと初めて知った。人や車の通行を上からこうして眺めていると、まるでひとつの巨大な生き物がゆっくりと揺れ動いているように見える。ビジネスマンやOLたちが駅のほうへ向かうありふれた朝の風景は、東側から差し込む浴びた光に照らされて少し赤みを帯びて見えた。真正面から向き合うだけでは決して知りえない。俯瞰したとき初めて、この巨大な、街という生き物について知ることができる。
 隣に立つ男を見やり、思う。こいつはここに立つたびにこんな感覚を味わっていたのだろうか。
 視線に気づいたのか、臨也がこちらを向いた。小さく笑って、言う。
「これだけ見てるのに、誰もこっちに気づかないでしょ。一人くらい、視線を感じ取ってこっちを見上げる人がいてもよさそうに思えない?」
「・・・そういやそうだな」
 街中で誰かに見られていると多かれ少なかれ視線を感じ取るものだが、こうして流れていく人たちは誰もこちらを見上げようとしない。
 臨也は楽しげに続ける。
「人間はね、上には視線を向けにくい生き物なんだって。真正面からの視線には気づけても、見下ろされればとても弱い。
 初めてそれを知ったのは中学生のときなんだけど、ああ、新羅に聞かされたんだよ。彼女が人間の行動心理学に興味を示したとかでその手の文献を読み漁ったらしくて、朝から晩までその話をされたなあ。で、とにかく俺はその話を知って、果たしてそれはどのくらい信用できる情報なんだろうと思ったんだよ。それで、翌日の朝、実際にこんな風に歩道橋の上に立って、通り過ぎる人たちを上から眺めてみたのさ。今みたいに全体をざーっと眺めるんじゃなくて、適当に一人を選んでその人をひたすら視線で追うんだよ。
 で、結局十五人ほど試してみたけど、視線に気づいて振り向いたのはたった二人だった。しかもそのうちの一人は俺がどこから見ているのか気づけなくて、あたりをキョロキョロ見回すだけに終わった。新羅の言った理論は正しいことが証明されたわけだ。上から見下ろされているとき、人間はその視線に気づけない。
 で、俺はそれから、ここが大好きになった」
 ここ、というのが具体的にこの場所を指しているわけではないことは明白だった。果たして、彼は続けた。
「俺はね、物事の全体を眺めるのが好きなんだ。映画で言うなら、、前の席で映像と中身にのめりこんで楽しむより、少々映像は遠くても後ろの席に座ってその場の雰囲気ごと映画を眺めたい。
 俺の存在によって揺れ動かない客観的な人たちを、こうやって横目に観察するのはさ、それからしばらく俺にとって楽しみになったよ。ううん、今でもかな。たまに、朝早く仕事で起きなきゃいけないときとか、こうして人を眺めて一息ついたりしてるからねえ」
「・・・てめえな」
 あまりにも彼らしくて思わずげんなりすると、彼はまたにやりと笑い、――そして、ふいにまじめな顔になった。
「だけどさ。
 だけど、シズちゃんはさ、俺に気づいちゃうんだよね。いつも。どんなとこにいても、何してても。別にじっくり見てたわけでもないのに、上にいる俺を見つけちゃう。喧嘩のときとかさ、喧嘩してないときでも、何をするつもりでもなく歩いてるだけでも、すぐに俺を躊躇いもなく、見上げてきちゃうんだよ」
 出会ったころからずっとそうだったね、彼は密やかにそう続ける。

「ねえ、シズちゃん。
 君のしたいように、していいんだよ。

 忘れたければ、忘れればいい。無かったことにしたければ、そうすればいい。俺はいつだって、元の俺に戻ってあげられる。いつもみたいにきみと真正面から喧嘩してあげられる。一生顔を出すなって言うんなら、そうしてあげることだってできる。
 お互い正気じゃなかったんだって、どうしようもなかったんだって、無効にしてあげていいよ。
 シズちゃんの好きなように、すればいい」

 隣に立つ男を見る。いつになく襟の高いシャツを着て、指先までを長いコートで覆い隠した彼の姿を。その下に覆い隠された皮膚の上に残る、無数の歯形を、鬱血痕を思う。
 委ねられた選択の向こうに、今は、彼の恐怖が見てとれる。拒絶されるのを恐れる心、予防線を張り巡らせて身を守ろうとする臆病な魂が。なぜなら静雄も同類だからだ。同じことを、思っている。猫のように気まぐれな彼を繋ぎとめておくことが、果たしてこれから先できるのだろうか。
 朝の光が歩道橋を照らす。映し出される遠いまなざしを、そっと、腕に引き寄せた。

「ノミ蟲」

 やっぱ無理だ。
 俺にはんな器用な真似できねえよ。しちまったことを忘れるのも、なかったことにすんのも無理だ。知ってるか、俺はあれが初めてだったんだ。声とか、触った感じとか、てめえが掻いてた汗の粒とかよ、全部全部忘れらんねえ。たぶんこれからどんな女と付き合ったって、てめえを上に重ねちまう。
 見て見ぬふりが長すぎて足が竦んでしまっていた。動くことが、壊すことが、戻れなくなることが怖かった。だからこそ、一度爆発した感情を暴走した心を、今更抑えたところで何にもならない。

「俺は、俺の好きなようにする」

 だから、てめえは俺のもんだ。
 見開かれる瞳を少しばかり誇らしく眺めながら静雄は、引き寄せた小さな体を恐る恐る抱きしめた。答えるように伸ばされた腕が静雄の背に回る。世界は誰も二人を見ない。通り過ぎてゆく街の流れに逆らうようにぽつんと抱き合いながら、二人はそこに長いこと立ち尽くし続けていた。

End.

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