7.

 罪歌、という刀があるのだと臨也は言った。そしてそれは、この世に滅多にない『本物の』怪異なのだと。人を愛しているから、一つになりたいから、宿り主を操って人を斬りたがるのだと。斬られた人間は体に罪歌の「種」を植え付けられ、手近な刃物を手にして、罪歌の「子」になるのだと。

「シズちゃんが神隠しの存在を信じたのは、本物の怪異をその目で見ていたから。だろ」

 一年と少しの間ずっと君を観察していた、と臨也は言った。静雄が罪歌になっていなかったから確信が持てず、傍に居る時間が長くなったのだと。

「確信って、・・・何のだ」
「斬り裂き魔は一人の人間を愛したがってた。ヘイワジマシズオ、という名の若く強い男をね」

 ヘイワジマ、シズオ。捕らえられた罪歌の被害者たち、無数の「切り裂き魔」たちは、繰り返しその名を口にした。
 彼を『愛せなかった』と、集められる限りの同胞を集めて彼を愛そうとしたのに、彼は『私たちの愛を受け容れてくれなかった』のだと。
 喜びの意思を持って破壊を投げつける、人の形をした鬼の子。彼を愛しきる自信がないと、罪歌たちは嘆いた。

 これまで、胎内に宿る罪歌の子を、自らの意思で押さえ込んだものなら居た。だが、何度も傷を受けておきながら、子を産みつけられなかった人間はこれまで誰もいなかったのだという。
 化け物に愛され、畏怖された男の名に、実のところ臨也は心当たりがあった。平和島家は名の知れた華族であり、その嫡男の名が『静雄』であることも、幼い頃から化け物めいた怪力と乱暴さで周囲のものに恐れられていたことも、有名な話だったからだ。

「・・・だから、大学講師になって、俺に会ったのか」

 みっともなく掠れた声が漏れた。静かな絶望が胸を覆いはじめる。
 もし、臨也の言葉が真実なら。彼は最初から罪歌の想い人だと知った上で静雄に近づいたことになる。静雄を調べ、何者であるか探るためだけに近づいてきたことになるのだ。
 声音も優しい言葉も全て近づくための演技で、静雄に向けた小言や笑みも、目的を隠すための仮面だったのか。
「・・・臨也」
 答えろと迫ると、彼は俯いて言った。

「そうだね」
「・・・てめえ」

 低く唸る。怒りが脳を白く焼いた。怒りのままに地面を蹴りつける。そのまま彼を殴り飛ばそうとして、はっと我に帰った。
 あまりにも近い場所に彼の白い顔がある。草の中に折り重なるように倒れ、そのまま引き寄せられたのだと認識するまでに数秒を要した。

「シズちゃん」

 腕を回される。どうせ全部嘘なのに、と与えられた温もりに逆らうように思考する。もしも静雄が罪歌たちのいう「ヘイワジマシズオ」でなかったなら、彼は別の男をその名で呼んでいたのだ。静雄ではない男に笑いかけ、触れ、今静雄を呼ぶのと同じ声音で、シズちゃんとその男を呼んでいたのだと、わかっているのに。
 騙されているのかもしれない、また傷つくのかもしれないと恐れても、それを押しのけて触れたいと思わされてしまう。臨也はまるで猫のように愛らしく残忍だった。正真正銘の外道だと言い換えてもいい。人を操り狂わせる術に誰より長け、そしてその術を操ることに何の忌避もないのだから。
 逆らえない感情の波に、負けてしまいたくなる。人を殺した『神隠し』の女の、裏切られた気持ちがわかる気がした。

 着物の合わせを強引に開いた。濃厚な草いきれ、内側から発光しているように白い皮膚がやみに浮き上がって目を焼く。首に巻かれたさらしを力任せに引きちぎると、絞まったのか彼が苦しげに咳き込んだ。喉元に残る赤黒い痕、痛々しく無残な痣を、骨まで引き裂いて焼き潰してやりたい。

「・・・シズちゃん」

 はっと息を呑んだ。荒々しくかすれ皴枯れた、声。彼の喉に食い込んだ静雄の指と、苦痛に歪められた彼の細い眉、額。
 忌まわしい記憶がちらりと閃く。

 幼い頃、屋敷で開かれた夜会に、初めて正装をして参加したときのこと。次々声を掛けてくる燕尾服の大人たちに疲れて、弟と二人で抜け出そうとしていたら、声を掛けてくれた女性が居た。静雄たちよりもずっと年上の彼女は、隅の目立たない場所に二人を連れて行ってくれて、疲れた子供たちのためにいくらか食べるものもとってきてくれた。
 それから幾度か、夜会が開かれるたびに静雄は彼女と会うことができた。大嫌いな正装を我慢し、苦手な他人が大勢集まる中、こっそりと彼女を探すのはとても楽しかった。時には彼女の方から静雄を見つけてくれることもあった。月に一度会えるか会えないか、会えても言葉を交わせないこともあったが、静雄はとても幸福だった。幸福はしばらくの間続いた。ある夜会で、見つからない彼女を探して庭に出、複数の男達に取り囲まれ、押さえつけられようとしている彼女の姿を見るまでは。

 我を忘れている間に、全ては終わっていた。周囲は破壊に満ち、男たちは血を流して倒れ、そして彼女も血の気のうせた顔で静雄の前に横たわっていた。

 幸い、彼女も男たちも命に別状はなかった。身分のある家の子女に手を出そうとした負い目のある男たちは平和島家に何も言っては来ず、彼女も静雄と話したがっていると聞きはしたが、静雄は二度と夜会に出ることはなかった。周囲もこれまでのように出るよう強いなくなっていた。

 あの時のように、臨也は力なく横たわっている。血の気のうせた顔をして、荒く短く呼吸しながら。
 だが、あの時閉じられていた彼女の目と違う、赤い虹彩がまっすぐに静雄を射抜いた。力ない腕が静雄を引き寄せ、唇が重なる。

「いいよ」

 幽かな声が耳を撫でた。苦痛に歪んでいたはずの彼の顔には、ひどく静かな色があった。

「さわって」

 許可の声であり、受容の声だった。静雄を知り、見抜き、与えてほしい言葉を知り尽くした上の、計算されつくした声と言葉。
 答えるより先に再び唇を重ねた。浅く、深く、繰り返し。
 娼妓のように振舞う彼に心は幽かに反発したが、残りの全てが細胞が、全身で彼を求めていた。


・・・


 二人分の汗と潰れた草の汁とで臨也の背中は濡れていた。裸の皮膚には無数の歯形と鬱血が散っている。衝動のままに貫き突き上げ好き勝手に揺らした体は壊れもせずここに在る。彼は見た目以上に強靭な四肢と筋肉を持つ、列記とした男なのだ。

 あの夜、無数の妖刀の子らに刃先を向けられ、愛を叫ばれた。ずっと長い間愛されることを求めていたはずの静雄が彼らを拒絶したのは、得体の知れない彼らと「愛し合う」気になれなかったというだけではない。

 今ならわかる。彼らが求めたのは静雄の暴力であり、強さだった。暴力とそれを振るう内面、どちらが欠けても静雄にはならない。平和島の跡取りとして求められることも、化け物の力を求められることも、結局は同じことだ。片側しか見ていない。静雄という存在を全て抱きすくめてみせたのは、折原臨也ただ一人だったのだ。

 だるそうに身なりを整える彼を眺める。目の眩むような絶望も怒りも今は遠く、ただ、途方もないことをしてしまったのだというぼんやりとした恐れだけが残っていた。
 少しよれた着物を再び着込んだ彼を引き寄せて口づける。重ねるだけの長い口づけを、彼は黙って受けていた。そして独り言のように呟く。

「シズちゃん、君は人間だよ」

 眼を見開いた静雄に構わず、臨也は言葉を繋ぐ。きみは妖怪でも怪異でもない。呪われているわけでもなければ、間違って人間に生まれてきた天狗なんかでもない。
「知り合いの闇医者が、君の体は一つの奇跡だって言ったよ」
「・・・そんなんじゃねえよ」
 そんなにいいものじゃないと強がる静雄に腕を回して、臨也は言う。

「俺だけの化け物でいてよ」

 人間のシズちゃん。

「ずっと君にそう言いたかった」
 抱きしめた体の限りない細さを、得体の知れない冷たさを、それでも静雄は「いとしい」と確かに思った。

 鼓動を感じるほど近くで彼と抱き合って、もう一つわかったことがある。臨也にはきっと、娼婦のような手管で誘うことしかできなかった。信じられていないことも、自分の全てを投げ出せないこともわかっているから、抱きしめることしかできなかったのだ。だから、彼は自分を食わせた。静雄を受け止め、見つめ、抱きしめてみせた。例え彼の目的が静雄を暴くことでしかなかったのだとしても、それでもいいと今は思えた。彼が静雄に与えた救いだけは嘘偽りない真実だったのだから。

 静雄が彼の化け物になっても、彼は静雄のものにならない。彼が姿を消しても静雄は追う術も持たない。きっと待ってばかりの恋だ。苦しく辛い恋になるだろう。

 わかっていても、手遅れだった。

 腕の中の体を精一杯抱きしめる。いつすり抜けて消えてしまうか解らない折原臨也という相手を、できればいつまででもずっとこうして抱きしめていたかった。

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