My winter does not come yet.



かつん、かつん。
冷たい冬の外気を割って、革靴が薄いアパートの階段を上る音がする。かつん
毎日俺はこの音を聞きながら、彼の帰りを知る。
薄い扉の向こう側で、足音がとまる。
この瞬間、少しだけ息を止めてしまう。緊張と、喜びと、それと、

「……ただいま」

少しだけ抑えたシズちゃんの低い声が、廊下に零れた。

「……おかえり、シズちゃん」

おかえり、この言葉をあと何回、俺は言えるんだろうか……彼に





泡立つ油の中で、衣に包まれた海老が真っ赤に染まる。
菜箸でつつきながら、歩いてきたシズちゃんへと視線を向ける。

「……手袋、付けてくれたんだね」

彼の長い指先は、俺が誕生日に、とプレゼントした黒い皮手袋で包まれていた。
冬場、彼の職は基本的に外回りなのにもかかわらず、碌に防寒具を付けていないので俺が見かねて
彼へと送ったのだ。
もちろん使ってくれと送ったわけだが、いざ其れを身に着けた姿を見ると、なんとも、こそばゆいような気持ちだ。

「さみぃんだよ、外……今日は?」

その手袋からゆっくりと彼が手を引き抜く。
肩越しから鍋の中身を覗くその目は、腹を空かせた子供のそれと変わらない。

「見ての通りエビフライと白身の……シズちゃん、ちょっと。エビ一人五本までだから」

説明している途中で、既に揚がったエビをバットから掴み、さっさとシズちゃんは口の中へと放り込んでしまった。
しゃく、と軽い音がする。そのまま、するするとエビは彼の口の中へと消えた。

「うめぇ……なんだこのエビ……食ったことねぇ」
「シズちゃんの薄給じゃ買えないようないいエビだからね」
「うるせ」

少しだけむくれた彼は、俺の頭をそ、と撫ぜる。
友人では無く、恋情を持った相手にするような触り方だ。

「……」

何も言わない彼を、俺は見ることができない。
海老が色が変わっていくのをじっと見つめる。
料理を作るのは自己満足だ、頼まれてやっていることではない。
きっとこの事をシズちゃんは聞こうとしているのだろう。

「……ほら、もうそろそろ全部上がるから。着替えてきなよ……靴下は?」
「洗濯機の中……流石に覚えた」

きっとシズちゃんは今、酷く曖昧な表情をしているんだろう……俺はそれを見ない。
幾度となく目を逸らしてきた。知りたくないのだ、何も。
かた、と、プラスチック製の弁当をシンクにおいて、シズちゃんは足音をひたひたと立てながら洗面台の方へと向かって行く。
ふ、と息をついた。
いつだって、俺とシズちゃんの中は冬の様に冷たいものだった。
何も芽吹かない、全ては眠りについて、春を待つのだ。
しかし生温い、シズちゃんとのこの生活が、すっかりそれを温めてしまったせいで、俺の氷はすっかり溶けてしまった。
……この暖かさに慣れきってしまって、すっかり、あの冷たさは俺の手元から抜け落ちてしまった。

「……寒い」

冷たいフローリングへと、足の熱が沁みる。
鍋の油の中でぱちり、と真っ赤な尾が爆ぜた。



「うめぇ!」

もっしもっし、とシズちゃんは口を動かす。
魚の白身がえらく気に入ったようで、取り皿には山の様に詰まれている。

「なんだこれ。ふわっふわだな。うめぇ。めちゃくちゃうめぇ」
「ボキャ貧だねぇシズちゃん……うめぇしか言ってないじゃん。まぁでも手間かけてるからね。生地に氷いれたりさ」
「……マメだよな、手前」
「……そうでも、ないよ。自分も不味いものは食べたくないからね」
「……」

あ、直視してしまった。
嬉しいのと、疑問と、色んなものがない交ぜになったような表情。
俺は、どうしてこんなことするんだ、と問われたら、きっと何も答えられない。

それはきっと終わりを意味している。

それが俺は怖い、でも、望んでいる。
きっと、シズちゃんもそれをわかっている。わかっていて、口にしないのだ。

「……どうしたの、シズちゃん」
「……いや、ありがとう、な」
「どういたしまして」


言葉を濁す彼が愛し
い。
少しでも、シズちゃんは変わることを怖がっているのだろうか。
自惚れがぐるぐると俺の腹の底を巡る。
一歩だって動けない。この状況がぬるま湯のような温かさで俺を引き留めるから、
前進しようともできない、未来への恐怖に竦んだままだ。
それ以上シズちゃんが何か言葉を発しないように、いつもは消したままのテレビをつけた。









空が白んできた。
薄い白いカーテンに、薄水色の空が透ける。
足があまりにも冷たくて、俺は眠りからずるずると覚めてしまった。
狭くて煙草くさいワンルームの部屋に、冬の朝が染み込む。
暖房を付けていた部屋はすっかりと寒くなっていた。
二人でうずくまっていた布団の中だけは温かく、冷たい足をもぞもぞと動かす。
隣では心地よさそうに金髪が揺れる。
白い肌に光が当たって、輪郭がぼんやりと滲んでいる。
頬にそっと手を当てると、俺の冷たい手はじんわりと彼の温かさを拾う。

「……寒い」
「あ……いざや……?」

薄らとシズちゃんが目を開ける。
鳶色の涙を含んだ瞳がこちらに焦点を合わせた。

「……どうした」

頬と同じように温かな手が、今度は俺の頬へ触れる。
青白い光の中で横たわる彼は酷くきれいだった。
……俺が、触れてはいけないんじゃないかと思うくらいに

「ちょっと、寒かっただけ」

触れた手を離させようと、顔のそばへと自分の手を近づける。
でも、その手を重ねてはいけないような気がして、
急に自分が汚いものの様に思えた。
浅ましく付きまとい、彼と一緒に呼吸することが急に、
酷い罪のように思えた。

「……なぁ」
「何?」
「何で……お前、」

震えた声でゆっくりと疑問を零す。
眉はうっすらと歪んで、俺にはその表情が泣いてしまう寸前の子供の様だと思った。

「……どうして毎日、ここにくるのかって?」
「……」
「それとも、こんな、まるで付き合ってるみたいなこと、するのかって?」
「……臨也」

責めるような口調になってしまう口が憎い。
相変わらずシズちゃんは顔を歪めたまま、頬に手を添えている。
ゆっくりと起き上がったシズちゃんは、もう片方の手も頬へと向けた。
子供体温だね、といってからかったのはいつだっただろうか。

「嫌かい?」
「んな訳ねぇ」
「シズちゃん、ねぇ、じゃあさ、なんでシズちゃんは俺のこと受け入れたのさ」

彼はまるで、可哀そうなものを見る目で、俺を見つめた。
終わりを待つのが辛くなってしまった。
こちらから終わらせてしまえば、楽になるのだろうか。
この春を忘れて、もう一度あの雪の中へと潜ることができるのだろうか。

「初めて……ここに来たとき、どうして、拒否しなかったんだい?あの時、気持ち悪いって、罵って、追い返してくれれば
良かったの、に……意地が、わるいね、きみ」

目の奥がじりじりと熱い。
鼻がツンとするとはこれかと、初めて知った。
まばたきすると、何かが零れた。
シズちゃんの手へとそれは次々と落ちた。

「……どうされてぇんだよ……手前は」

重くなったまつげを、彼の指先がなぞる。
それでもあとからあとから俺が零すから、
シズちゃんは困ったように俺を見ていた。

「……早く、早く終わって欲しい、この関係が長く続けば続くほど、君から離れがたくなる。はやく冷まして……シズちゃん、
冬は寒いけど、その先には春があるだろ……君のいない春が欲しい……」
「……意味わかんねぇ」

右手で俺の頭を引き寄せて、シズちゃんは触れるだけのキスをした。
目元に、鼻筋に、唇に、優しいそれが今は俺に痛みをもたらしている。
ず、と鼻をすする。わずかにアメリカンスピリットが香った。

「わからなくて、いいよ」

「なぁ……お前は、終わるのを怖がるけどよ、そんな先のこと考えてんなよ……俺は目先の事でいっぱいいっぱいだ。
でも、今幸せだ……それじゃ駄目なのかよ」

腕をまわされて、固い体に引き寄せられる。
抱き寄せられた胸元に、何かが滲んだ。
冷たい部屋の空気を二人で吸い込んで、もう一度少しぬるくなった布団へ体を寄せた。

抱きしめられた腕の中でまどろむ。
眠りに落ちそうになった瞬間ぼそりと彼が言った、
俺は終わらせるつもりはねぇよの言葉を、
どう咀嚼して飲み込めばいいのか、俺はまだ知らない。

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