15.

 チョッパーとサンジが訪ねたのは、その島で一番大きいのだという医療施設だった。病院だけでなくリハビリセンターやトレーニングルーム、長期患者のための特別病棟まであるのだという。交渉はチョッパーが行った。どのように説明したのかは不明だが、特別病棟の空き部屋をひとつ貸してもらえることになったらしい。彼曰く、医者にとってこの寄生虫のデータはのどから手が出るほど欲しいものだ、ということだった。要するに、実験データを病院側に提供する代わりに入院費をただにしてもらったということだ。少々複雑な気分は抑えられないが、環境を用意してもらっただけでも感謝しなくてはいけない。12時間が経過したとき、サンジほどの体術の使い手が完全に理性をなくして暴れ出すことを思うと、あまりに危険でホテルなどの部屋を利用するわけにもいかないからだ。その点、麻酔や睡眠剤などの蓄えもある病院という環境は都合がいい。
 荷物を隣の部屋に起き、チョッパーに促されるままに巨大なベッドに横になると、流石に少しばかり感傷的な気分になった。本来ならば肌身離さず持ち歩いているはずの灰色のノートは、わざと船に残してきた。どうせ次に眠って目を覚ました時には、治っているか自分でなくなっているかの二択なのだ。あと24時間で全てが終わるなら、もうあのノートを懸命に読み返す必要はないと考えた。
 いわばこれは願掛けなのだ。何しろあの中にはサンジと言う人間の全てが記されている。読まれたら恥ずかしいを通り越して飛び降り自殺できる自信がある。だが、もしサンジがただの獣になりさがり、メリー号のコックがこの世のどこにもいなくなったら、きっとあの船の面々はサンジのレシピノートを思い出のよすがにしようと考える。ノートに掛けた鍵は簡単な南京錠だ、その気になれば誰だって破壊できるだろう。つまり、サンジは何が何でもこの治療を乗り越え、あのノートを自力で回収しなくてはならないのだ。・・・最も、もしもの場合は事情を知っているチョッパーが中身を読まずに処分してくれるはずなので、大した意味はないのだが。それでも、サンジなりの意地だった。
 それでも。そうした意地とは別に、サンジは赤いノートをキッチンのテーブルの上に残してきた。
 自分がいつかいなくなっても、クルーたちが飢えることのないように。そう思って懸命に書き継いでいたノート。結果的に記憶のすり減った自分自身をも助けた赤いノートの最後のページには、この先一か月の食材の配分について書いてある。さっきチョッパーと買い込んだ食材も、誰にでも調理できる簡単なものばかりだ。扱いの難しい香辛料や調味料はほとんど買っていない。いつかそういった食材をきちんと扱える他の誰かが見つかった時、その時に買ってくれればいいのだと静かに微笑む。
 その時自分はいない。どこにもいない。
 こうして横になっている間にも、今朝の戦闘の情景が少しずつ薄れていく。チョッパーとの船番の小芝居だって、何度脚本を読み返したか分からない。今朝作った料理のメニューも思い出せなくなっている。育ての親の名前すら、ぼんやりとして遠い。ただ、彼の失った片足と、「ジジイ」と懸命に彼にすがった幼い自分の声だけは、今もまだ忘れずにいる。
 そして。
 昨夜何度も肌の上を滑ったゾロの分厚い手の平の感触は、今も鮮明に覚えている。忘れられなくなるくらい触ってやると告げた彼の声音も。自ら口づけた時の温かな感触も。いや、あれは彼からの口付けだったか?記憶は定かではない。
 それでも。
 病院側が用意したのだという拘束衣に着替えて背伸びをする。まだ着替えただけでベルトなどは留めていない。留めるのはチョッパーの役目だ。ベッド脇には様々な麻酔薬や精神安定剤が用意されている。これじゃあまるで拷問部屋だと思い、苦笑した。
「チョッパー」
 傍らのトナカイに声をかける。先ほどまで小さかった彼は巨大な姿になってサンジの様子を見守っている。一瞬戸惑ったが、ああそうだ彼は人型になれるのだったとノートの記述を思い返して納得した。
「・・・何だ?サンジ」
 でっかくなっても声は可愛いままなのかと少しおかしくなり、笑いながら「これ」と小さな紙切れを渡した。
「もしものときは、・・・これをゾロに渡せ」
 あいつが一番適任のはずだ。そう言って小さく笑ってみせる。
「・・・サンジ」
 こちらの言わんとしていることを正確に理解したらしく、チョッパーの顔から血の気が引いた。毛むくじゃらの顔でも血の気って引くんだなとどうでもいいことを考える。
「サンジ、・・・まさか」
「無様な姿をさらす気はねえのさ、俺は」
 失敗したときは。
 俺を殺せ。
 麦わら海賊団のクルーは皆優しい。優しすぎるくらいだ。だから、もし完全に理性を失った獣になっても、それがサンジならば守ろうとするだろう。懸命に元に戻そうと努力して、長い時間をサンジのために費やすだろう。それだけ彼らの夢に費やすべき時間は短くなっていく。
 だから、そんなことにはならないように。
 サンジがただの獣と化したら、必ず殺してほしいのだと。
「サンジっ・・・!」
「泣くな、チョッパー」
 拘束衣のせいで上手く動かない右手を懸命に伸ばして、いつもより高い位置にあるチョッパーの頭を撫でてやる。
「これは、ゾロが負うべきことだ。お前じゃねえ」
 ゾロとサンジのことを知っていたチョッパーになら話せる。言葉を探しながら言い聞かせた。
「あいつがきっちり俺を殺せるか、それとも殺しきれずに生かすか。それが、あいつが俺に抱いていた感情の答えだ」
 もし少しでもあいつが俺を理解し、俺に対してなにがしかの感情を抱いているのなら、必ず俺を殺すはずだ。それが俺を救うことだと理解できるはずだ。その感情が愛でなくていい。好意ですら、なくていい。ただの欲でもかまわない。いっそ悪意であってもいい。それでも、何らかの感情を持って、ゾロが俺を理解してくれていたのなら。
 チョッパーは目を見開いてサンジの言葉を聞いていた。
 しばらくして、ぽつりと言った。
「そこまで言えるのに、どうして、ゾロのこと好きって言わないの」
 おおう。カウンターを食らった。言葉に詰まってチョッパーを見上げ、そして、驚いた。
 トナカイは、泣きながら笑っていた。笑いながら泣いていた。
 だから、サンジも何も言わずに微笑んだ。
 微笑んで、トナカイの大きな手に紙切れをくしゃっと握らせた。

 拘束衣の留め具を固定するとき、チョッパーはひたすら目を伏せていた。やはり、あまり気持ちのいい作業ではないのだろう。自分が逆の立場だったとしたら絶対に嫌だ。
 ちょっとやそっとでは動けないくらいの状態になったあと、チョッパーは慎重に、恐る恐ると言った体で懐から紙包みを取り出した。漂うスモモの香りに、それが何なのかを察する。
「カプセルに閉じ込めて、錠剤の形にしてあるんだ。呑みやすいようにね」
「・・・そうか」
 今更だが、幾らごくごく小さいとはいえ「寄生虫」を呑むというのはあまりいい気分ではない。錠剤の形をしていてくれてよかった。
「・・・心の準備は?」
「いつでも来やがれ!」
 不敵に笑って顔を上げる。チョッパーはまた泣きそうな顔で笑って、
「じゃあ、行くよ!」
 と、サンジの口にその錠剤を放り込んだ。

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