苦手な先輩がいる。強いことで有名な私の学校の野球部の先輩。地毛とは思えないような髪の色をした、常に笑顔を浮かべている人。
どこが苦手かと言われればいろいろあるけれど、いちばんは理不尽なところだ。なんだかよく分からないけれど、私のやることなすことすべて小湊先輩は気に入らないらしい。おだやかな笑顔でちくちく刺さる言葉を投げかけられて、たびたび泣きそうになる。
「ねえ、集中できないからもっと離れてくれない?」
グラウンドからすこし離れたところで野球部の練習を見ていたら、その小湊先輩にネット越し話しかけられた。話しかけられたというよりは、文句を言われただけなのだけれど。私は先輩のことばに従って数歩うしろに下がる。
初めて野球部の練習を見に行ったのは、友人に誘われたからだった。ちょっとだけ見ていかない?と言われて私は特になにも考えずにうなづいた。ぼんやり練習風景を観察していた私がたまたま目にとまったらしい小湊先輩が浮かべた輝く笑顔にすこし見惚れてしまった自分がバカすぎて目も当てられない。
「小湊先輩!」
「何、うるさい」
「集中できないなら私帰ってもいいでしょうか…!」
会うたびに何かしらの嫌味を言われて、傷付かないわけがない。小湊先輩は、なんというか人の粗を探すのが上手いというか、とにかくどんな些細なことでも見事に嫌味のタネにしてみせた。地味に的を得たことを言っているので完全に反論することができなくて、私はいつも黙ってうなづくしかできない。誰だって皮肉や嫌味ばかり言う人に進んで近づいたりはしないだろう。私もしごく普通のこととして、小湊先輩を遠ざけた。彼に会わないようにグラウンドに近づかないようにした。
しかし、そんな努力を虚しくもぶち壊したのは、小湊先輩だった。
「18時半まで」
クスリと笑みをこぼす先輩は無情にもそう告げる。私はなぜか18時から半までの30分、野球部の練習を見ることが義務付けられている。小湊先輩によってだ。
それまでの放課後の時間を私は図書室で勉強したりして潰さなければならない。なんて横暴な制度なんだろう。ちょっと意味が分からない。
神も仏もないとはまさにこのことかと項垂れる私を満足そうに見て、小湊先輩は練習に戻る。
「いみわかんない」
ぽつりと呟いた言葉は喧騒の中に溶けて消えていく。どうして小湊先輩は私にかまうのだろう。ひどいこととか嫌なこととかたくさん言ってくるのに、そばにいさせようとするのだろう。
彼はひょっとして私に気があるのかもしれない。そんな自意識過剰気味な考えが頭をよぎる。そうだとしたら、小学生男子みたいな人だなあ、なんて呑気に思う自分にすこし笑えた。



「なにボーッとしてんの、帰るよ」
六時半を呟いたちょっと過ぎた頃、小湊先輩が私のところまで迎えに来る。練習が終わっても自主練習をするらしく、びみょうな柄のTシャツを着ている先輩に毎回女子寮まで送られるのだ。
女子寮はすぐ近くだし、送られるほどの距離でもないのだが、それを指摘すると叩かれたので私は閉口するしかなかった。
「あ、はい、おつかれさまです」
「本当におつかれだと思ってるなら、さっさと歩いて」
じゃあ迎えになんかこなきゃいいのに、なんて口が裂けても言えないけど。先輩の揺れる襟足を見ながら、ため息を飲み込む。嫌味を言われるのも叩かれるのも嫌だから、先輩に無意味な抵抗はしない。口でも力でも先輩に勝てないことは明白なのだから。
「先輩、おなかすきましたね」
それでも最近は、先輩にも慣れてきて当たり障りない会話くらいなら仕掛けられるようになってきた。その会話も先輩によって一蹴されることがほとんどなのだが。自分の高い順応性にはおどろくばかりだ。
身長はおおきくないけれど、しっかり筋肉がついているところとか、造形は整っている顔とか、先輩は女の子に好かれそうな要素がたくさんある。私をからかって楽しむよりも、もっと健全な高校生らしく彼女のひとりでも作ればいいのに、と不思議に思う。つくづく変わった趣味の人だ。
「そんなんだからデブなんだよ」
「ぽっちゃり系が好きな人って結構いるらしいですよ」
「興味ない」
「…先輩、世の中にはこんな私でも好きだって言ってくれる人がいるんですよ」
小湊先輩は私に意地悪ばっかり言うし、叩くし、命令ばっかりする。そんな先輩みたいな人じゃなくてもっと優しくて爽やかな男の子から言い寄られることも皆無じゃない。ほとんどないけど。
先輩に言いたい放題バカにされるぼーっとしている能天気な私のことを好きだという変わった人もいるのだ。反論のつもりで言ったそれに、先輩の雰囲気が波立ったのが分かった。
「バカなの?」
「…えっ」
「そんなの都合よく適当なこと言ってるだけでしょ。おまえボーッとしてるから引っ掛けやすそうに見えてんだよ」
冷静な先輩の分析に、私はすこし傷付いてすこし納得してしまった。先輩の言う通りかも、と思い当たる節はいくつかあった。
しかし、そんな軽いノリで落とせる女に見えるのだろうか、私は。ちょっとショックを受けていると、先輩が、おまえほど流されやすい女を俺は知らない、と追撃をかけてくる。否定できなかった。
「どうせおまえに言いよってくる男なんて皆ヤりたいだけなんだから、簡単に信じるなバカ」
「ヤ…ッ、何言ってるんですか…」
「ほら、すぐそういう顔する」
目の前が暗くなったと思ったら、小湊先輩がものすごく近くにいた。なんだなんだと、私が距離をおこうとしたものの片手で頭を掴まれて、もう片手で右手首を拘束された。
首の横のあたりに噛みつくように、唇を落とされて吸われる。まるで流れるような作業で当たり前のような顔をしてそんなことをするものだから、私の体は硬直する。何やってるんだこの人。すこしの痛みと熱、先輩の唇の感触、どれも現実味を帯びていない。なにこれ。
「男はそんな顔されると、すぐ期待する生き物なんだよ」
「ど、どんなかおですか」
「エロい顔」
そんな顔したつもりは微塵もない、と首を振る。エロい顔ってどんな顔だ。無意識にでもそんな顔をしていたとしたら、恥ずかしすぎる。至近距離にある先輩の視線から逃げるように、目を泳がせる。近い近い。
小湊先輩こそ、こんなことして、私にどう思われるか考えているのだろうか。どう考えても出てくる答えは自惚とも言えそうなそれで、わけがわからなくなる。どうしよう、心臓がうるさい。
「今後は俺の前でだけ、そういう顔してればいいから」
心底満足そうに、私の首筋を撫であげる先輩に、思わず肩をおおげさに揺らしてしまう。先輩の唇があったそこは、たぶん痕になっているだろう。先輩の細い目がすこし開かれて、私を見透かす。ひどい人だ、意地悪な人だ。こんな男に目をつけられた私は本当に運がないとしか言えない。
首に残る熱に、自分が誰に引っかかってしまったのかを、思い知らされた気がした。

20140503
そこで見てて