「ごめんね?」
誠意のないかるい謝罪をしてから、すこしだけひらいたその唇をふさいだ。ふにゅりとした感触と、さっき寿一くんが食べていたカツ丼のにおい。限界まで見開かれた目がおかしくて、とても愛おしくて、泣きそうになった。
彼にとってのファーストキスは拍子抜けするほど、簡単に奪いさってしまえた。

部室で、こんな不純なこと、まじめで誠実な寿一くんが許すはずがない。そんなこと分かっていたけれど、がまんできなかった。わるいのは、部室なんていうある意味プライベート空間にわたしをいれた寿一くんだ。貸してあげた現代文のノートを部室にわすれた寿一くんのあとをついてきたのはわたしだけれど。
イスにすわった寿一くんの顔がちょうどキスしやすい場所にあったこと、わたしたちのほかにだれもいなかったこと、わたしがムラムラしていたこと。そんなような条件がいくつも重なって、わたしたちは今、唇を重ねている。

「じゅいち、くん、っん…」
「っ…」
おどろいて動けないのかまったく抵抗しない彼をいいことに、ちゅ、ちゅ、と何度も軽いキスをくりかえす。くすぐったいようなかわいいキスは、なんとなく寿一くんに似合っているような気がした。
女性と付き合ったことはないと、まえに言っていたことをぼんやり頭に浮かべる。真面目な彼のことだ、キスだってまだなはず。わたしがファーストキスの相手なんて、申し訳ないような気にもなるけれど、それよりも優越感がわたしのなかを支配していた。
今後、キスするたびに、わたしのことを思い出してしまえばいい。寿一くんには似合わない、薄汚れた独占欲だとおもった。
されるがままにキスされている寿一くんがいつの間にか目を閉じて、わたしを受け入れる姿勢にはいっていることに気付いたのは、両手で数え切れないほどのキスをしたあとだった。

「寿一くん?」
余裕なさそうに私の腰に手をまわしている彼に、こえをかける。むりやりキスしたのに、彼は拒むどころか心酔さえしているように見えた。
なんで嫌がらないんだろう。彼女でもない女に突然部室でキスされたらふつう怒るし、不快なはずだ。すこしだけ赤い頬と切なそうに細められた目からはそんな感情は見て取れない。むしろ、逆のような。
キスに収拾をつけて、ふつうの距離感にまで体を離すと、寿一くんの手もしぜんと離れていった。名残惜しそうに私の腰を一撫でしていったことに、さらに疑問が頭をよぎる。
「…何だ」
かすれた、いつもより色っぽい声にまた体が疼く。寿一くんでも、こんな顔するんだなあなんて、じっと見つめてしまう。目が合うと、すぐにそらされてしまう。気恥ずかしさがすこしだけ浮かんだその表情がたまらなくわたしを煽る。
まじめで堅物で、純粋な寿一くんを汚しているようで、興奮した。わたしはたぶん変態なんだとおもう。
しかし頭に浮かんだ疑問がどうでもよくなることはなくて、わたしは思いつく可能性をすなおに口に出した。
「キス、好きなの?」
「……」
「だ、だまらないでよ、こわい」
イスにすわったまま、そっぽを向いていた寿一くんの顔がすこしけわしくなったのを見て、しまったと思った。寿一くんにはしょっちゅう怒られているけれど、彼の怒った顔を見るのは好きじゃない。できれば、ずっと笑ってくれていたらいいのに、とおもう。彼が笑うことなんてほとんどないに等しいが。
寿一くんのきゅっと結んでいた口がひらく。彼はむずかしい、ふくざつな顔をしていた。
「分からない」
「ん?」
「…初めてだったから、まだ何とも言えない」
やっぱりファーストキスだったらしい。ファーストキスがこんなムードもなにもない感じで、さらに相手がわたしで、わたしがやったこととはいえ、ちょっと可哀想になってしまう。怒っている様子は見えないから、もしかしたらキスが好きなのかもしれないと思ったけれど、はじめてでキスが好きになる人っているのかなあ。すくなくとも、なんとも思ってない人のキスに酔えるほど、わたしはキス好きではないのでいまいち理解できない。
びみょうな顔をしていたら、寿一くんがそらしていた視線をわたしに向けた。彼らしい強い目だった。その目にどきりと心臓がはねる。
「だが、もう一度したら、分かるかもしれない」
「…んん?」
ちょっとなにを言っているのかよくわからなかった。おもいきり首をかしげる。
寿一くんがまっすぐこっちを見ているので、おもわず見つめかえす。じっと見られているのがなんだかむずがゆくなって、視線を横にそらした。
もう一度、とは、もう一度キスしてもいいということなのだろうか。というか、そうとしか聞こえなかったのはわたしの都合のいい勘違いなのだろうか。
かたりと静かにイスをひいて立ち上がる寿一くんを呆然と見つめる。ほんのすこしだけ右足がうしろに下がってしまったことに、きっと彼は気づいていない。
「…え?」
あっという間にわたしたちの間の距離はなくなって、ぴったりと唇がくっついた。腰をかがめた寿一くんも、棒立ちのわたしも、目はひらきっぱなしで至近距離で視線が交わる。もはや近すぎて目があってるのかあってないのかも、わからないくらいだけれど。
キスされた。寿一くんに。
まったく想定外の事態にわたしのあたまは混乱をきわめる。いやなわけではない。先にキスをしたのはわたしだ。
寿一くんはわたしのことを拒絶するはずだった。すくなくとも、わたしのなかでの彼は。しかし現実の彼は拒絶するどころか許容し、さらにはじぶんから唇を重ねてきた。知らない。こんな寿一くん、知らない。
「顔が赤いな」
近い距離で指摘されて、とてつもない羞恥にかられた。ふだんどおりの鉄仮面がわたしの頬に手をそえる。冷たい手だった。いや、寿一くんの手が冷たいのではなく、わたしの顔が熱いのかもしれない。
キスするときと、されるときでは随分ちがう顔をするんだな、なんて、恥ずかしいセリフを真顔で吐かれる。いじわるだ、そんなこと言うの。まあ、寿一くんのことだから、ほんとうにただ単純にそう思ったから言ったにすぎないのだろうけれど。
「…っ」
それにしても、この状況はおかしいのではないか。
なぜか急にあたまが冷静になって、寿一くんの手を払いのけた。よろよろとうしろに下がろうとしたら、腰に手を回され、引き寄せられる。びっくりして、わたしは声にならない悲鳴をあげた。
もしかしたら寿一くんにそっくりな赤の他人なんじゃ、とすらおもった。力強い腕も、分厚い胸板も、エロいなあなんて見ていたのに、今は、それが近くにあるのが恥ずかしくて仕方ない。
「自分からするのはよくて、俺からするのは嫌だなんて、許されると思うか」
「い、いやじゃないよ…というか、なに、寿一くん、へんだよ?」
「変にしたのは、お前だ」
熱い。わたしもだけど、おもに寿一くんの体が。ぴったりとくっつけられた固い体が熱を帯びているのをまざまざと感じさせる。ヤバイかもしれない。
欲望のままに彼の唇を奪った。そのことが、寿一くんの中の欲望に火をつけてしまったとしたら、わたしには責任をとるくらいしかできることはない。
仕掛けたわたしに当然、拒否権なんてない。あってもたぶん、しないだろうけど。
備え付けられた机のうえに、わたしの名前が書かれたノートがぽつんと置いてある。きっと、あのノートのことなんて今の寿一くんの頭の中にはこれっぽっちも残っていないのだろう。近づいてくる、寿一くんの熱のこもった目と、あやしい動きをする手のひらに、もう一度強引にキスされたら、わたしの頭の中からも、それは消えてしまうだろうな、と予感がした。

20140531
あおげば愛し