「彼氏できた」
給水ポイントでボトルを渡された時に早口でそう言われた。思わず落としそうになったボトルを素早くホルダーにしまう。給水は一瞬だ。その一瞬で、アイツは何を言った?
ペダルを回す足は緩めない。もうすぐ山だというのに。疲れとは別の意味で頭が働かない。ボトルを受け取った時、どうやら思考を落としてきてしまったらしい。

言うまでもないが、その日の結果は散々だった。


「あ、おつかれ巻島」
勇み足でマネージャーの元へ向かう。呑気に空のボトルを運んでいる彼女は、こともなげに残念だったね、なんて言ってのける。
今日の走りは最悪だった。それはもう東堂に心配されるくらいには。落車しなかったのが唯一の救いだ。それもこれも全部、彼女のせいである。
「さっきの、どういうつもりッショ」
「ん?」
「大会中にあんな…どういう神経してんだよ」
ボトルを渡す時に、彼氏ができた、とか普通言わないだろう。マネージャーが選手の集中力削って、何がしたいんだ。非常識すぎる。
彼女はいつもは有能なマネージャーだ。気が回るし、よく働く。しかし、ごくたまに突拍子もないことをしでかす。そんなところも嫌いではないが、今回は簡単に許せそうにない。
彼氏って誰だよ。部活一筋と見せかけて、ちゃっかり恋愛とかしてんのかよ。というか、彼氏って。彼氏って。
「そんなに動揺した?」
「当たり前ッショ!?」
「ごめんごめん」
ヘラヘラ笑ってるマネージャーの頭にチョップを落とす。持っていた空のボトルの箱が揺れた。
俺にとってはまともに話す女子はコイツくらいだ。だが、よく考えたらコイツは違う。気さくとは言えないがいい奴だし、よく笑う。部活一筋とは言え、普通に生活していたら俺以外にも仲良く話す男はきっとたくさんできるはずだ。
彼氏がいても、おかしくない。あんまり自然にそばによってくるから、そんなことまで分からなくなっていた。
「で、誰なんだよ」
「え?」
「…カレシ」
まるい目をぱちぱちとまたたかせてから、彼女は楽しそうな笑顔を見せる。こっちの気持ちも知らないで、と言いたくなる。相変わらず幸せそうに笑う奴だ。
どんなやつが彼氏だろうと到底納得はできないだろうが。それを伝える権利は俺にはない。俺は彼女の彼氏でもなんでもないのだから。
よいしょ、なんて間の抜けた声でボトルを下におく。
「彼氏なんかいないよ」
「……ハァ?」
「うそついちゃった」
心底嬉しそうに笑うものだから、思わず脱力してしまった。怒る気力も失せる。
魂まで一緒に出てしまいそうな長い溜め息が出た。うそかよ。
それから彼女の頭を力なく撫でる。惚れた弱みとは、このことだろうか。
「そういうウソは、せめてレース中以外にしてくれッショ…」
「うん、もうしない。ごめんね」
うそ、彼氏はいない。その言葉にほっとしている自分に呆れる。焦りとレースでどっとかいた汗が気持ち悪い。汗臭い俺とはちがい、彼女はよくわからない花みたいな甘い匂いがする。同じ人間なのにここまで違うのか、とコイツを見てるとたびたび思う。
それはともかく彼氏がいないならいい。それならまだ俺にもチャンスが、なんて我ながらバカバカしくて女々しい考えに口元が歪んだ。
「巻島が私のこと好きなの知ってて、意地悪言っちゃった」
頭を撫でていた手が、というより全身が固まった。俺を見上げて照れ笑いをしている彼女と目が合う。悪びれている様子は皆無だが、そんなことはどうでもいい。今、何て言った。
「っ…?、…!…?」
うまく言葉が出てこないのはよくあることだが、今はそんな自分が恨めしい。全身が熱を持ったみたいにガッと熱くなる。
遠くで鳴子が「マネジ先輩がおらへんー!!!」叫んでいるのが聞こえる。そっちの方に視線を向けた目の前の彼女は足元のボトルたちを抱え直した。
「巻島のそういう顔が見たかったの」
輝く笑顔でそう言ったあとすぐにマネージャーの顔に戻った彼女は、鳴子たちの方へと駆け出して行ってしまった。
アイツは一体何を考えている?
その場にしゃがみこんで、赤くなった顔を髪で隠す。アイツはどこまで俺を翻弄するつもりなんだ。

20140410
恋においてはそれがすべて