伸ばした手を、振り払われた。
それはとても勢いがあったために、ばちん、みたいなそんな音が廊下に響いた。通行人が私たちを好奇の目で見る。昼休みの廊下は人通りも多い。しかし、私の耳は驚愕で機能停止してしまったらしい。怖いくらいの、無音。
おどろいていた。私も、春市も。彼の目は見えないけれど、きっと私とおなじように見開かれているのではないだろうか。
「ご、めん」
思わず謝る。どうして謝らなければならないのか、分からない。けれど、口から出たのは稚拙な謝罪の言葉だった。
いつもと同じような話題、スキンシップだったはず。もちろん、彼を怒らせるようなことは言っていない。
むしろ、野球部での成績を褒めた。また打ったんだって?さすがだね、とかそんな感じで。それで、頭を撫でようとした。いつもやってることだった。
「や、っ、こっちこそ、ごめん」
「…私、なにかした?」
「ううん、なんにも、今のは僕が悪い。ごめんね」
むかしから私は引っ込み思案気味だった春市をかわいがってきたし、春市も私によくなついていたから、ケンカというケンカは今までしたことがなかった。たまに可愛がりすぎて彼が拗ねることはあったけれど、私を拒絶したことなんか一度もなかったのに。
はじめての拒絶。はじかれた手が痛い。それ以上に、心臓のあたりが、痛い。
いったい何がいけなかったのだろう。何が、彼を嫌な気分にさせてしまったのだろう。私は、嫌われてしまったのだろうか。春市は否定しているけれど、なにもなかったら、あんなに強く手を振り払ったりしないはずだ。
「何か、あったの?」
「…ううん」
「ウソつくの、ヘタだよね。あいかわらず」
ぞくにいう、おさななじみで。私と春市と亮介、家が近かったために長いこと付き合いがある。私は亮介よりひとつした、春市よりひとつうえの歳。だからクラスメイトにはなれなかったけれど、それなりに仲良くしてきた。
思春期特有のぎこちなさも特にないまま高校生になり、廊下ですれちがえば手もふる、メールや電話もするし、休みに三人で地元に帰ることもある。今も昼休みにたまたま会ったから雑談を交わしていたのだ。仲がいい、というのは自惚れではない、はず。
申し訳なさそうに笑う春市に、不安が募る。ああ、たぶんこれは無理して笑ってる顔だ。長いこと一緒にいたからか、なんとなくなら些細な表情も見分けられる。
「やなこととかあった?」
「ちがうよ、ちょっと、びっくりしただけ」
うそだ。その言葉が建前なことは簡単に分かった。けれど、彼の本音がどこにあるか分からない。何を思って、私を見ているのか、無理に笑顔を作っているのか、わからない。何もかもを包み隠さず話せる時期はとっくに通り過ぎて、今はそれなりに私の知らない春市、春市の知らない私が存在している。幼いときとは違うのだ。もう私と彼はぜんぜん、べつの、にんげんなのだ。
「私、春市のこともっと聞きたいよ」
だから、話してほしい。何が彼をそんなに怯えさせているのか、わからないから。彼は理由もなく、手を振り払ったりするような子じゃない。春市が大切だから、分かりたいと思う。分かる努力をやめたくない。
なるべくやさしく、さとすように声を掛ける。ずっとまえに亮介はこんな私の態度を、おねえさんぶっていてムカつくと言って突っかかってきたっけ。ぼんやりと霧がかかったみたいなふわふわした記憶がよみがえる。
そんな思考をぷつんと途絶えさせたのは、ほかでもない春市の言葉だった。
「…やめてよ、ねえさん」
ねえさん、なんて久しぶりに聞く単語に戸惑っていると、彼が私の手首を掴んだ。視界に映る彼の顔はいやに真剣で、私はぐっと息を飲み込んだ。
春市の手が熱い。そんなに強く握らなくても私はどこかに行ったりしないよ、なんて茶化せる雰囲気ではない。いくら見た目が可愛らしくても、高校球児の握力はすさまじい。掴まれた手首の骨がきしむ。
「好きです」
「へ、え?」
途端に耳に飛び込んでくる喧騒。何人かの生徒が私たち、というか春市の言葉を聞いて足が止まる。
好き。私だって春市のことは好きだ。弟のようにずっと可愛がってきた春市が嫌いなわけがない。だけど、今この場で彼が口にした言葉が、そんなような意味の”好き”でないだろう。そこまで鈍くない。
「ずっと前からあなたのことが好きでした」
何かを諦めたような、とても悲しい顔をした彼がていねいに言葉を紡いでいく。春市の目にはきっと、私は相当マヌケな顔をしているように見えるだろう。
そっと握られていた手首が離される。赤くなっちゃったね、ごめん。なんて、そんな泣きそうな声で言わないでほしい。
ぐらりと視界が揺らいだ気がした。
「…冗談?」
「冗談にしたほうがいい?」
「春市、」
それじゃあ、私の手を振り払ったのは、弟扱いが嫌だったから?
いつから、かすれた声でそう聞く。どれくらいの時間、我慢していたのだろう。無理して笑っていたのだろう。私はそれに気付けないでいたのか。
「ずっと、だよ」
春市がそう言いながら、私の背中をそっと押す。もう昼休み終わるから、とか、そんな気遣いいらないのに。彼はやさしい。小さい時からずっとそうだ。私のためにおやつを残してくれたり、泣き虫のくせに私のことをいじめっ子から守ろうとしてくれたり。
いつから春市は私のことを、ねえさんと呼ばなくなったのだろう。いつから私は、春市のねえさんでなくなったのだろう。考えても分からないけれど、このまま教室にもどることもできない。今ちゃんと話しておかなければ、彼はきっと私を避けるだろう。
私のことを思って、距離を置くだろう。そんなの、いやだ。
「春市、サボろう!」
今度は、私が彼の手首を掴んだ。ぎゅっと、振り払われないように強く。上ずった声でサボりを提案する。
春市は驚いて、ぽかんと口を開けている。そんな彼の手を引いて、歩き出す。授業が始まる直前の廊下は、人通りが減ってきた。
「ちょ…っ!?」
「私、ちゃんと考えるよ。春市はこと、男の子として見てみる」
春市のことを恋愛対象として見たことなんかなかった。そういうふうに考えたこと自体がなかった。私はずっと春市のお姉ちゃんだと思っていたから。それが、春市を傷付けてしまった。
彼が私のことを女の子として見ていると言うなら、私も見方を変えなければならない。
「ぜったい、フられると思ってたのに」
不安そうな弱々しい春市の声に、私はちいさく笑った。正直、春市のことを好きになるかなんてわからない。今はまだ春市への好きは、おさななじみとしてのものだ。
でも、彼に好きだと言われて、大切に思われて満更でもない自分がいるのも確か。すこし恥ずかしいけれど、嬉しいと思った。
とりあえずひと気のないところへ、進む足は軽い。
「だって、まだ答えを出すには早いかなって」
「そっか」
掴んでいた手首の力をゆるめると、春市の手が私の手のひらをすくった。そのままつながれた手のひらは熱い。
積極的な春市に驚いて、ちらりと後ろを見ると顔を真っ赤にさせていて、やっぱり春市は春市だなあ、なんて思った。照れ屋でもある彼の赤く染まった頬はむかしと変わらず可愛らしいのに、つながれている手はあんがい大きくて無骨だ。
「そういうところも、僕、すごく好きだよ」
聞いたことないくらいに甘い声でそんなことを言われたら、照れくさすぎる。思わず離しそうになって手は、彼によってしっかり掴まれていて離れる気配はない。怖いなあ、あんがい簡単に落ちてしまいそう。だめだだめだ、熱をもった思考を振り払うように大きく息を吐いた。
とにかく今は、次の授業をどうやってやり過ごすかを考えなければ。先生に見つかったら怒られてしまう。まあでも、春市と一緒なら、それも苦痛ではないかもしれない。

20140401
覚束ない指先のフーガ