「はーあ、さむいねえ」
おおげさに肩をあげて、目をつむった彼女を見るのは今年で何度目だろう。くせになっているのか、その仕草はやけに彼女に馴染んでいるような気がする。
はあ、と吐いた白い息で目の前の景色がかすむ。
「12月だからな」
「そんな当たり前のへんじはもとめてない」
深くて暗い色のマフラーをぐるぐるにまく彼女を横目に、じぶんの薄い生地のマフラーを口元まで引き上げた。
さっきまで指揮者を、いや神峰を食い入るように見つめていた彼女の目が、俺にむく。何となく、俺も見つめかえした。目があうと、ばちりと音がして何かが弾けるような錯覚に陥るのは、なぜだろう。
「音羽君は、そらさないよねえ」
目。と、しごくどうでもよさそうに呟かれたそれに眉をよせる。一体誰と比べているのだろう。不愉快。実に不快だ。まるで、指揮者と奏者が噛み合っていない演奏だ。
俺はその不快感のままに、彼女のマフラーをひっぱって、首をしめあげた。そういえば前に、神峰がこのリボンみたいなマフラーの結び目をほめていた。うれしそうに笑って神峰にやり方を教えていたこいつを思い出して、さらにむかついた。
「く、くるし…っ」
「あ、泣きそう」
「音羽君のせいだよ…」
生理的なものであるだろう潤んだ目を見て、なぜか背筋にゾクゾクとした感覚が走った。俺の手をはらい、マフラーをゆるめ出す彼女に、マフラーの中に隠した口元がゆるむ。
「貸せ」
彼女のうしろに回り込んで、冷えた指先で結び目をほどく。俺のせいで崩れたマフラーがゆるんで、ほどけていく。首元にふれる冷気に気付いたのか、彼女は肩を強張らせた。
その大げさな反応がまた楽しくて、マフラーのすきまから見えたうなじを軽く撫でた。
「つっめたい!」
「俺が直す」
「ええ?どうしたの音羽君…」
こっちを振り向いて、困惑の色を見せる顔をつかんで、無理やり前を向かせる。長すぎるようにも思えるマフラーをふたたび彼女の首に巻き直す。自分の手でぐるぐると巻かれていくそれに、ひどい優越感を覚えた。
冷たい風が、寒がりなわりに短い彼女のスカートを揺らす。
「きょうの音羽君、なんかへん」
「?」
「合わせ、第三楽章、も、ちょっと強引だった」
彼女がいつもしているあのリボンのような結び目なんて、もちろん作れるはずもない。不器用なわけではないが、女のマフラーなんて巻いたことはないから、出来はひどいものである。
そんなマフラーにうずまる彼女の口からは、もごもごと疑念が飛び出してくる。
生意気な、そう思った。俺のことなんて見ていないくせに、まっすぐ神峰だけを見て、神峰に応えるためだけにキラキラした音を出していたくせに。けっしてきれいとは言えない感情が俺の中でぐるぐると渦巻く。
「……」
「…ほんとだよ。となりで聴いてるわたしが言うんだから」
「…へえ」
「あっ、なにその顔」
彼女のトランペットの音がキラキラしだしたのは、神峰が来てからだ。あいつの指揮が、彼女の最高の音をひきだす。
なんて子供じみた嫉妬なんだろう。自覚症状が出るくらい、感情が大きくなってきてしまっていたなんて。
ぐちゃぐちゃなマフラーを見下ろしながら、そっと、彼女の髪に手を伸ばす。やわらかそうな、細い髪だ。
「いちばん近くで音羽君の演奏を聴いてるの、わたしなんだから」
御器谷と似ていると言われている彼女の星空みたいな瞳がやわらかく細められる。出会ったときから変わらない独特の笑い方に、ゆっくりと息を飲んだ。なんてうれしそうに、なんて幸せそうに笑うやつなんだろう。この笑顔を見るたびにそう感じる。
トランペットが入ったケースを大切そうに撫でて白い息を吐く彼女を、奪いたいと思った。視界も、呼吸も、すべて。
「そうだな、お前が一番ちかい」
「ふふん」
「なんで得意げなんだ」
「音羽くんの一番もらっちゃった」
じんわりと体温が上がっていく感覚。おおきな優越感と、それを上回る言い表しようのない感情で鳥肌がたった。
我慢ができなくて、彼女と距離をとるように比較的おおきな一歩を踏み出す。うしろから不満げな静止の声がきこえるけれど、かまわず歩いていく。今の顔を彼女に見せたくないからである。
「へんな音羽くん」
「…うるさい」
「ねえ音羽くん河原いこ。でさ、二重奏しようよ」
いつもとなりから聴こえる繊細で力強い彼女の音に、どれだけ救われてきただろう。控えめなくせにまっすぐ響いて、俺の音にかき消されることは絶対になくて。そんな彼女の音楽に惚れた。それから、彼女自身にも興味をもった。
へら、と情けない笑顔でわらう彼女が、早足で俺に追いついて、横にならんだ。歩くスピードがだんだん遅くなっていく。無意識下でさえ、きっと、俺は彼女の歩調にあわせてしまうのだろう。
20131224
記憶のかたちはお星さま