彼は、何の変哲もないただの部員の一人だった。他の部員と同じく野球に魅せられた野球バカの一人であった。それが変わったのは、いつからだっただろう。
「山本!」
「おっ、マネージャー」
「今日も自主練来ないの」
「んー今日はちょっと用事あんだわ」
むっ、と顔をしかめる。何よ、前は誰より部活命だったくせに。山本の横からひょこっとツンツン頭が顔を出した。沢田だ。彼は眉毛を下げて自信なさげな笑顔を見せた。山本が変わったのは、多分この、いかにも頼りなさげな男の影響だ。
「……試合、近いんだよ」
「分かってるって!ちゃんと練習には出るからさ、みんなによろしくな」
笑顔で手を振って、彼は帰っていった。あまり過剰に引き止めるようなことはしない。ウチはそんなに強いチームじゃないから、練習だって緩い。だけど、沢田に笑いかけるその背中を見送るのは、何だか複雑な気分だった。
***
自主練に付き合った後、私は部員たちのコンビニに寄ろうという誘いを断って、並盛ボールに来ていた。どこか古ぼけたバッティングセンターは、あまり繁盛している様子はない。置いてあるゲーム機だって、ずいぶん古そうだ。備え付けのメットの埃を軽く払う。汚いけど、まあいいか。帰ってお風呂入るし。
バッターボックスに入って深呼吸すると、だんだん世界が静かになっていく気がした。私はこの瞬間が、嫌いではなかったりする。
「先客がいんのは珍しいな」
「……」
「しかも女子!」
静かになっていく、はずだったのに。振り返ると、へらへらと笑う山本がこっちを見ていた。無視してバットを構える。飛んできたボールを思いっきり打ち返すと、ホームランのマークに当たった。
「スッゲ」
「邪魔しないで、よ!」
白い球が見えたら、腕を振る。その繰り返し。面白いくらいにボールはホームランマークに当たる。ボールがバットの芯に当たる音。重たい感触。痺れる手。全部慣れ親しんだ感覚だった。速球なら私でも遠くまで飛ばせる。タイミングさえ合えば、難しいことじゃなかった。
全てのボールを打ち返し終わって、息を吐くと、笑顔の山本が待っていた。
「マネージャーって野球できたんだな」
「中学上がるまでやってたから」
短いスカートをはたいて、ヘルメットを外す。長い髪が鬱陶しくて、頭を振った。そうだ、これで通算200ホームランは行ったはずだし、あとでおじさんに景品ねだらないと。
山本は、もうプレーはしねえの、と声をかけてくる。乾いた笑いがこぼれた。
「しないよ」
「何で」
「女だから」
チームで一番野球が上手い自信があった。だけど、中学からはソフトボールをやるように勧められた。親にも、先生にも、チームメイトにも。でも私がやりたかったのはソフトボールじゃなかったからやめた。
長く伸ばした髪も短いスカートも、気に入っていないわけじゃない。女である私を否定したいわけじゃない。でも、たまに、男だったら、と考えることがある。
「……マネージャーっていっつも怖い顔してっから近寄りにくかったけど、案外普通じゃん」
「何それ」
「いや、普通の、ただのチームメイトだなと思ってさ」
だから、何よそれ。山本はメットをかぶり、バットを手に取った。私なんかよりも全然似合うから、何だか悔しくて脛でも蹴ってやりたくなった。
「あ、バッテ忘れた!貸して」
よくもいけしゃあしゃあとそんなことを言えたものだ。備え付けのバッティンググローブではサイズが合わないので、私は自分用のものを持参していた。どう考えても、山本の手が入るとは思えない。そこにあるやつ使いなよ、と言うと、クセーからやだ!と言う。気持ちは分かるけど。
「私のが入るわけないでしょ」
「分かんねーよ?」
比べてみるか、と彼が手を広げたので仕方なく左手を重ねた。比べるまでもなく分かっていたが、私の手の方が明らかに小さい。指先は、彼の第一関節にも届かないくらいであった。
「全然違った」
「そりゃそうよ」
何がおかしいのかハハハと笑った山本に、毒気が抜けるような気がした。山本は普通の部員だった。だが、入部したときから、底抜けに明るくて、他人を思いやれて、人一倍努力できる、そんな素晴らしい奴だった。だから怪我して落ち込んでる彼を見ても、すぐに立ち直るだろうと思っていた。まさか飛び降り自殺まで考えているなんて思わなかった。
「ねえ、あんた野球辞めんの」
突拍子もなく飛び出した私の言葉に、彼は大きく目を見開いた。逃さないように、重ねた手を握った。彼の目はさらに見開かれる。
手のひらの大きなマメは、多分きっと、バットを振ってできたものじゃない。何となくそんな気がした。ゆっくりと手を離せば、彼は困った風に笑う。
「辞めねえって」
「本当かな」
「信用ねえのな、オレ」
「だって最近サボり気味だし」
大きな体、野球センス、チームを引っ張れる人柄。私が欲しかったもの全部持ってるのに、彼が野球から離れようとしていることが、単純に信じられなかった。だって、もったいないじゃん。
うつむき気味に視線を落とすと、グッと頭が重くなって驚いた。脱いだばかりのメットを再び被せられたのだった。
「勝負しようぜ」
「は?」
少年のように楽しそうな顔で笑う彼に、今度は私が目を見開いた。
「オレが勝ったら、ウチで寿司な。売り上げに貢献してもらうぜ」
「……私が勝ったら?」
「一週間メシ奢る!」
「負ける気しないんだけど」
実際、バッティングだけなら、この男にだって負ける気がしない。後悔しても知らないからね、と言えば、また楽しそうに笑った。まあよく笑う男である。腕折って自殺しかけた奴とは思えないな。
山本が野球をやめようが続けようが、私には関係ない。もったいないとは思うけど、私の人生じゃないし。まあ精々、好きに生きて、勝手に幸せになればいいさ。
20180909
YOMOSUGARA