あ、辻君だ。
廊下を歩く彼の姿を教室の中から目撃した。隣のクラスの辻君。私のちょっと気になる人。目が合いそうで、ぜんぜん合わない人。
「いつも伏し目」
「え、急に何?私?」
「どこ見てるんだろう」
「こっちの台詞だよ、おーい、どこ見て話してんの?」
五分休みにこの教室の前を通ったということは、きっと一階の自動販売機に行ったんだ。ペットボトル、手に持っていたし。あの赤いパッケージはきっと、リンゴ。有名なメーカーのアップルティー。私も今度、買ってみようかな。
あ、辻君だ。
体育は隣のクラスと合同なので、辻君も当たり前にそこにいる。指定のジャージがよく似合っていない。そんなところはちょっとかわいい。
自分のジャージの袖を伸ばして、口許を隠す。あんまり顔に出ないけど、辻君は対男子なら結構ノリがいい。ほら、今もふざけあってる。
「私も男の子だったらよかったな」
「また急になんか言い出した」
そしたら、辻君の視界に映り込めたのに。
あ、辻君だ。
階段の踊り場で辻君と出会う。出会うといっても辻君は私のことをまったく見てないんだけど。見てないけど一応、いつもより背筋を伸ばしてしゃんとして歩く。乙女心ってそういうものだ。
すれ違い様に辻君の左手にあるペットボトルに目がいく。あ、またアップルティー買ってる。
「あ、」
つやつやと光輝くリンゴに目を奪われていたせいで、階段を踏み外してしまったようだ。ずるりとすべった上履きに私の体は斜めにかたむく。ちゃんと前見て歩かないから、なんて昨日転んだ時に友だちに言われた言葉を思い出す。そうだね、その通りだ。
「……」
「あれ」
もうどうしようもないなと私が諦めの境地になってから数秒後、私はからだのどこも痛くないことに気付く。肘を何かに掴まれてる感覚と、肩にかかる重力。あれ。私の代わりに階段を転がり落ちるアップルティーのペットボトルを見送る。少し振り返ると斜めにかたむいた前髪が見えた。
あ、辻君だ。
「ありがとう」
「……」
辻君が素晴らしい反射神経で私を支えてくれたらしい。素直にお礼を言うけど、辻君は私じゃなくて、落ちたアップルティーの方をただ一点見つめている。声、聞こえてるのかな。
長い沈黙のあと、おそるおそると言った感じで辻君の手が私の肘から離れた。私は今度こそきちんと階段に立つ。
「つじく……」
彼の名前を呼びきる前に、辻君は私に背を向けて、階段を登っていってしまった。あれ、アップルティー、落ちたままだけど。私の代わりに階段を転げ落ちてしまった悲劇のアップルティーを助けにいけばいいのか、恩人である辻君を追えばいいのか、悩んでいるうちに辻君は見えなくなってしまった。
仕方がないので取り残された私は、とりあえずペットボトルを拾うことにした。慎重に階段をおりて、辻君のアップルティーを拾う。
「……泡立ってる」
これじゃあ、返すに返せないな。
「辻君!」
偶然見かけるだけじゃなくて、自分から彼に会いに行くのははじめてだ。腕に抱えたペットボトル計5本、2.5キログラム。なかなかの重さである。友だちに辞書借りに行く以外ではじめて来た隣のクラスはなんだか、はじめて来た場所みたいに感じた。
「えっ……」
「こ、これ、落とし物……です」
男子数名とお話ししてた辻君がびっくりした顔を私にむける。あ、はじめて目があった。重たい荷物を抱えて、辻君のところまで行く。足が結構重い。なんか、緊張する。辻君の周りの男子だけじゃなくて、みんなこっち見てる気がする。
「はい、どうぞ」
「え……」
「……重いので、できれば早く受け取って……」
戸惑う辻君をそう急かせば、彼は五本一気に受け取ってくれた。とたんに軽くなる腕に目を瞬かせると、辻君はたどたどしく、増えてる……と言った。そりゃそうだ。新しく五本も買い直したんだから。
「何?辻に貢ぎ物?」
「辻今日誕生日?」
周りの男子がぶしつけなトーンでそんなことを私や辻君に聞いてくる。いや、そんな。そんなたいそうなものじゃ……。
「お、落とし物……兼謝礼?なので……」
私以上になんだかいたたまれなさそうな辻君がいたので、あわててそんなフォローを入れる。フォローになってるかどうか分からないけど。
「そういう感じなので……」
「……」
「つ、辻君、ほんとにありがとうね」
「……」
「えっと……バイバイ?」
辻君と目があったのは最初の一回だけで、今はもう完全に伏し目に徹している彼に手を振る。見えて……見えてないかな……やっぱり……。私が手を振ってることに気付いたのか辻君はびくりと肩を揺らしたあと、本当にそろそろと右手を控えめにあげた。あ、見えてるんだ……ていうか、返してくれるんだ……。
はじめて返ってきた辻君のリアクションにびっくりしながら、あわてて自分のクラスに引き返す。き、緊張した。
「あれ、どこ行ってたの?もう授業始まるよ」
「うん」
「顔真っ赤じゃん、なに熱?りんごみたいになってるよ」
「あ、」
小さな声が聞こえて、何だと周りを見回す。あ、辻君だ。ということは、今の“あ”も辻君のもの?
「辻君」
「……」
何か言いたそうに、だけど絶対に私の顔を見ないように目を伏せている辻君。どこまでも徹底したその姿勢に私は苦笑いをした。
「……お茶」
おお、と思った。辻君が私に向かって、意味をなした言葉をしゃべっている。その単語は確かに、お茶と聞こえた。
「あんなにもらっても、困る」
「あ……ごめん」
「えっあっ……」
「そうだよね、おんなじの何本もいらないよね」
ごめんね、と謝る。私的には感謝の気持ちのつもりだったんだけど、どうやら迷惑だったらしい。なんだか、すごく申し訳ないのと同時にすごく悲しくなった。
「そ、うじゃなくて……一気に貰っても飲みきれないから」
「……」
「つぎからは一本ずつで……」
「……つぎ」
「あ、いや、次っていうのは……」
しどろもどろに見える辻君に思わず笑みがこぼれた。次もまた、受け取ってくれるらしい。
「辻君、やっぱり甘いの好きなんだね」
「は……」
「私も好きなんだ、アップルティー」
「へ……」
「同じだね」
本当は辻君が持ってるの見てから、好きになったんだけど、それを言うのはあまりに早計というか、あざとすぎるかなーと思って言わなかった。
汗が浮かんでる辻君に笑いかけると、やっぱり一瞬だけ目が合った。
20161228
こころんなかでずうっと名前を呼ぶ練習