!ダイヤのB
「沢村君、やってる?」
最速で、我が吹奏楽部の筆頭問題児に名を連ねることになった後輩、沢村君。バカな子ほどなんとやら、とはよく言うけれど、例に漏れず、私もそんな彼の明け透けなバカさに可愛いげを感じてしまっている。
吹部のエースになる、なんて大きなことを言ったわりに楽譜も読めないおバカさんは、クリス先輩から授けられたドリルをぐぬぐぬ言いながら解いている。居残り補習、しかも練習ではなく、楽譜の読み書きでなんて。うちの部は一応、強豪なんですけどね〜〜。
「センパイ!いーいところに!!」
「そろそろ行き詰まるかと思ってね」
「行き詰まりまってやした!!」
「堂々と言わないの」
沢村君の目の前に座り、テキストを覗き込む。どれどれ……うん、基礎の基礎は同じ一年の小湊君に叩き込まれたらしいから、そこそこできている。まあ基礎って本当、幼稚園生でも分かるようなとこだけど。問題は、速度記号とか、発想を示す用語か。
「沢村君、これ読める?」
「ア……アン、ダ、ン……テ……?」
「うん、そう。アンダンテ。意味はゆっくり歩くような速さで」
「ほうほう」
「アレグロ、速く。アテンポ、もとの速さで。こういう速度記号はよく出てくるから覚えようね。全体の演奏にも影響するし」
「ウッス!」
「パート練で他の子と合わせてれば平気だけど、やっぱり楽譜は自分で理解できてないと」
「ウッス!!」
体育会系の返事をする沢村君は私の言葉をメモしていく。大変素直でよろしい。
「あとは……コモド、気楽に。ドルチェ、甘くやわらかに。この辺は表現についての記号だよ」
「表現……」
「楽譜にはこういう風に弾いてほしい、っていう作曲者の意図が書かれることがあるの」
「そんなの、日本語で書けばいいじゃないスか!!なんで英語!」
「うん、音楽記号で一般的なのはイタリア語、ドイツ語、フランス語あたりね」
もちろん、作曲者によって、英語やロシア語で書かれてることもある。でも一番多いのはイタリア語、次がドイツ語とされている。あっ……もしかして、沢村君、アルファベットで書かれる言語の区別ができてない……?
「が、楽譜の細かいところまで理解すれば、表現の幅も広がるし、きっともっと音楽が楽しくなるはずだよ。面倒でもちゃんと勉強しようね」
「はい!いやー先輩の言うことは深い!音楽がなんたるかを分かっていらっしゃる!」
「……まあこれ昨日御幸が沢村君に言ったことまんまなんだけど」
「えっ!?」
「他の先輩の言うこともちゃんと聞きなさい」
苦笑いを浮かべると、沢村君はいかにも不服です!って顔をした。後輩が可愛いのは私も御幸も同じだけれど、彼は可愛がり方が下手だからなあ。指揮者としては優秀だし、音楽に対する考え方も真摯な、立派なヤツなんだけど。
「御幸……先輩も、クリス先輩も、春っちも、スパルタなんスもん!やだ!!オレずっと先輩に教えてもらいたい!」
「みんな忙しいのに付き合ってくれてるんだから、ワガママ言わないの」
「先輩も忙しいんスか?」
「暇に見えるって?」
「いっ、いや、そういうわけじゃねーッスけど」
「これでも忙しいんだよ?でも、沢村君の面倒見てって御幸のお願いだし。断れなかったよね」
「……先輩って、御幸ヒイキっすよね」
「そりゃ私たち意外と仲良しだし」
贔屓だと言われても、あんまり人を頼らない彼にお願いされちゃ、断れないじゃないか。あれだけ大人数の部内で、二年のまとめ役をやっている彼とは結構な苦楽を共にしたし。
……まあ、最初はそういうわけで、仕方なしに沢村君の指導を始めたのだけれど、今はわざわざ頼まれなくても自主的に顔を出すようになった。ほうっておけないというか、見守ってないと何しでかすか分からないというか、とにかく沢村君から目を離せなくなってしまった。
「ずるい」
「何が?」
「オレも先輩にヒイキされたい!」
「えー……直球ー……」
「手始めにもっとオレに色々教えてください!手取り足取り何取り!!」
「近い近い」
ぐいぐい来る後輩に腕を伸ばして距離をとると、両手をからめとられてしまった。ぎゅうっと大きな手に握りこまれて、肩をすぼめる。私が後ろにのけぞるたびに、鼻息荒く身を乗り出してくる沢村君に困惑する。中学の時は部活にはほとんど女子しかいなかったし、あんまり男子にぐいぐい来られると困ってしまう。
キラキラした大きな目が至近距離で私を見つめる。すごい、目。大きくて、ガラス玉みたいに光を反射して、すごく、きれいだ。ウッと息がつまる。
「さあ、オレに教えてください!AからZ!一から百まで!さあ!さあ!」
固い手のひらにつつまれた、自分の両手が熱いし、顔も熱いし、とりあえず離れてほしい。心拍数が速すぎて、苦しい。即座に4分音符とイコールが脳内に出てきた私はなかなか、音楽バカである。
頭のなかでぐるぐるとそんなこと考えていたら、がらがらっと扉が開いた。あ。
「ちゃんとやってるか見に来てみりゃあ……なあにやってんだ沢村?」
「ゲッ!!御幸!!」
「オレ先輩な」
グッドタイミングなような、バッドタイミングなような。しかし、第三者の登場で、沢村君は私の手を離したので、結果的に距離をとることに成功した。ほっ。いや〜〜びっくりした……。
「はっはっは、沢村君ってば、先輩に恋のいろはも教えてもらおうってか。やらし〜〜」
「なっ!?ちっげーよ!オレは音楽を!純粋に!」
「ちなみにこの女の好きなタイプ、ショパンだぜ?楽譜も読めねーバカに落とすのは難しいと思うけど」
「ショ、ショパン……!?」
「ちょっと御幸、余計なこと言わない。あとあんまり沢村君で遊ばないの」
私の好きなタイプを暴露されて、まだちょっと熱いままの顔で御幸を睨む。御幸はカラカラと笑っているし、沢村君はショックを受けたみたいに固まっている。ショパン、そんなに衝撃的だったのだろうか。有名だと思うんだけど。
「あと、一応、言っとくけど、うちは部内恋愛禁止だから」
「そうなんスか!?!?」
わーわー喚く沢村君に、小さくため息をつく。部内恋愛禁止なんて、私も初めて聞いたけれど?眉を寄せて御幸を見上げると、ヤツはいやらしい顔で笑った。とことん沢村君をいじり倒すつもりらしい。そういうことするから嫌われるんだよ。男子ってヤツは、どうしようもない。
「恋愛って、どこまで禁止なんスか!?手握るのも!?」「手握るのはアウトだろ」「壁ドンは!?」「壁ドンはセーフ」バカみたいな会話を聞き流しているときに、ふと浮かんだのはかの有名な劇作家の『音楽は恋愛の食べ物』という言葉だった。音楽にまみれている私たちに、恋愛禁止というのは、あまりにも。くすりと笑みがこぼれる。
「なんか、吹きたくなってきたから私行くね」
「それならオレも!!お供しやす!」
「そのテキストが35ページまで終わってるんなら許可します」
「クッ……まだ10ページ以上……」
「はっはっは、道は険しいな〜〜沢村〜〜」
20151017
ロングトーン・トランペット