俺は何故選ばれなかった?
あいつの方が俺よりふさわしいと?
方印のあるなしで当主が決まるしきたり?
そんなもん俺が壊してやるよ…
このどす黒い感情が弟への嫉妬や劣等感があることを理解してきて、俺がそれを甘んじて受け入れるようになってから方印のない右手は空虚な空間に見える。
そんなものを未だ気にしてしまう俺自身が、俺は嫌いだった。
「お茶淹れたよ
休憩したら?」
いつもちょうどいいタイミングでお茶を持って来て一緒に飲んでいく名無しは、外見も心も綺麗で、正守はいつも眩しく感じる。
仕事の邪魔はしたくないから正守の休憩を作るのとか言ってお茶を飲む少しの間だけくる彼女は目の前で楽しそうに喋っている。
自分の中に渦巻いている暗い感情を彼女に打ち明けてしまってもきっと彼女はそれを受け入れてくれるだろうとわかっているけれどそんなもので彼女を汚したくもなかった。
いつものように名無しが話しているのを聞いていると、急に話し声が止んだので訝しく思って顔を上げるとただまっすぐに正守を見つめている彼女と目があった。
「この頃正守そこばっかり見つめてる」
そこ、と言われても顔を上げてしまったのでどこだかわからなかったし、顔を上げる前にどこを見ていたかなんて意識してなかったから結局わからずじまいだった。
正守の気持ちがわかったのだろう、右手と名無しが短く言う。
言われて空虚な空間に目を落として初めて、このところそういえばふとした瞬間に目に映るのはここだったかもしれないと思い当たった。
言うだけ言ってなんで?とか聞かない彼女に安堵しながら、いっそ話してしまおうかと悩んでいる間に名無しは何事もなかったかのように湯呑を片づけて行ってしまった。
「もう終わりそう?」
夜、ひょこっと顔を覗かせて聞いた名無しにあと少しだから先に寝てて、と返事をした後、ふと昼の会話を思い出し、それと同時に弟の手に浮かぶ方印まで思い出されて正守は強く額をこすった。
右手に方印があったら俺はこんなにひねくれなかっただろうか
右手に方印があったらこんなに力を求めなかっただろうか
右手に方印があったら俺はしきたりをうっとおしく感じてそれを消し去ろうとしなかっただろうか
右手に方印があったら俺は…俺は弟を羨むような醜い気持ちを抱えずに済んだのだろうか
自分の奥底で渦巻く暗く黒い感情を抑え込もうと気づかず握り締めた右手をゆっくり開いて、やっぱり方印なんて無いんだけどね、と自嘲気味に笑おうとして、失敗する。
泣きたいのか笑いたいのか自分でもわからなくなって顔をしかめた。
ーートンッ
「!…名無し?どうした?」
突然背中に軽い衝撃が走って白く細い腕に抱きしめられる。
なにも言わずにぎゅーっと力を込める彼女に安心させられていくのを感じながら入ってきたのに気づかなかったな、と的外れなことを考えていた。
後ろから彼女が手を伸ばして正守の右手をそっと握った。
「もし正守に方印があったら」
「あたしは正守に逢えていなかったかもしれない」
耳元で聞こえる名無しの声はかすかに震えているようで、
「好きだよ、正守
だからそんな苦しそうな顔をしないで」
恥ずかしがり屋の彼女からはなかなか聞けない、小さく呟かれた言葉に驚いて身じろぎしたのが伝わったのだろう、するりと腕を解いて離れようとする名無し。
そのまま出ていこうとしたその手を掴んで振り向かせた瞬間見えた彼女の顔は真っ赤だった。
「名無し」
「な、に…」
俯いてしまった彼女は照れて火照った頬を見られたくないらしく、振りはらって逃げようとする。
そんな名無しを見ていたら先ほどまでの暗く冷たい感情はどこかへ消えてしまった。
「もう一回言ってよ」
「やだ」
「なんで?聞きたい」
「いや」
「ほら恥ずかしがらずに言おうよ、襲うよ?」
「なっ………好き、だよ…っ〜〜〜〜!」
耳まで赤くなって正守の胸に顔を埋めて隠す名無しを抱きしめて笑う。
「俺は結局夜行や名無しの方が大切なのかもな…」
なにもない右手を眺めながら呟いた。
「もうそこ見ちゃだめ」
正守より小さい手が手のひらを覆う。
視線を上げればちょっと怒った顔をしていて、
「名無しがずっと手を繋いでてくれれば見なくてすむし、名無しは俺から離れないだろ?」
にやりと笑うとまた赤くなってそっぽを向いてしまったけれど小さく、小さく呟かれたいいよ、をきちんと聞いていた正守は名無しを引き寄せて満足気にまた笑った。
とらわれないで
(だから、なくたっていいでしょ?)
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