[74]二人
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十月十一月のインターナショナルウィンドウにはどちらもA代表の国際親善試合が組まれ、保科は海外に遠征した。
十月にアメリカ、十一月にヨーロッパ。
そうして日本を離れる機会が増えれば増えるほど、保科は彼女が恋しくなる。
一週間でもつらいのに、一年なんて無理だと思ってしまう。
だが同時に、再び海外の選手と試合をすると、どうしても挑戦を諦めたくない自分がいることにも気付かされた。
いくらプレーを評価されようが、保科は未熟だ。
四年後も代表に選ばれ、日の丸を背負ってピッチに立ちチームを勝利に導くためには、圧倒的に力が足りない。
もっと経験を積み、格上の選手たちに揉まれて強くならなければ。
十一月下旬、ヨーロッパ遠征でポルトガル代表との親善試合に負けて帰国した保科は、ようやく決意した。


「何かありましたか?」

久しぶりの、彼女の手料理。
心待ちにしていたはずのそれを、だがいつもとは異なりのろのろと口に運んでいた保科は、彼女の声に顔を上げた。
一週間ぶりに会った彼女が、保科の顔をじっと見ている。

「しばらく前から様子が変だなあって。拓己さんが話したくなるまで待ってようと思ってたんですけど、今日は一段と心ここに在らずなので、流石にちょっと心配です」

ああ、気付かれていたのかと、保科は眦を下げた。
やはり彼女には敵わない。
チームメイトや友人たちには、お前は分かりづらいと言われることの方が多いのだ。
実際保科も、自分はあまり表情豊かな方ではないと自覚している。
それなのになぜか彼女は、保科の変化に敏感だった。
こういうところにも、助けられていると思う。
自分の感情さえ満足に表現出来ない保科の機微を、彼女はいつも汲み取ってくれた。

「……うん、」

この生活を、失うのか。
何も言わずとも分かってくれて、さりげなく保科の悩みを聞き出してくれて、支えてくれる。
そんな彼女と、離れて暮らすのか。

「………セリエAのチームから、スカウトを受けた」

それでも保科には、たとえ自らの幸せを切り捨ててでも、この道を進み続ける理由がある。
あの日弾かれたボール、キャプテンマークを腕に巻いてプレーした満の後ろ姿。
記憶に焼き付いて離れない、罪の証。
保科に、立ち止まることは許されない。

「えっ?イタリアですか?!」
「うん。……来年の夏に、移籍しようと思っている」

身を斬られる思いだった。
半身を手放すような恐怖感だった。
それでも保科は、最愛の人を残してでも、走り続けるしかない。
そしてこれが傲慢でなければ、傷付くのは保科だけではなかった。
置いて行かれる彼女もまた、どれほど寂しい思いをするだろうか。
一緒に暮らしていた恋人が突然、何の相談もなく、海外に行くと言い出したのだ。
怒られても、泣いて詰られても仕方ない。
保科が、誰よりも守りたい女性を傷付けるのだ。

「ーー すまな、」
「凄い!え、本当に?凄いですねっ!」

しかし保科の血を吐くような謝罪は、心底嬉しそうな彼女の声に遮られた。
俯けていた顔を上げれば、声音の通り、彼女が笑っている。
保科は戸惑った。
彼女は、それがどういうことか分かっていないのか。
もしくは、分かった上で、保科と離れることは彼女にとって大きな問題ではないということか。

それとも、まさか。

「………一緒に、来てくれますか」

消え入りそうなほど、小さな声。
期待と不安で声が掠れた。
そんなことを彼女に頼んではいけない。
日本にいても、充分すぎるほどに支えて貰ったのだ。
そんな彼女に全てを捨てさせてまで、これ以上を求めてはいけない。
そう、分かっているのに。
もし、もしも彼女が、共に来てくれたら。

「はい!……あれ、もしかして一人で行くつもりでした?あ、勿論拓己さんが良ければ一緒にって意味ですよ?」

見当違いも甚だしい配慮を付け加えた肯定に、保科は思わず語気を強めた。

「分かっていますか?イタリアですよ。言葉も文化も違う」

保科の心配は、至極真っ当だったはずだ。
だが彼女は、けろりとした様子で笑った。

「ああ、大丈夫ですよ。私、大学で勉強してた第二外国語はイタリア語だったんです。日常会話くらいなら楽勝です。英語もそれなりに喋れますし」

それに、と彼女は付け足す。

「文化は、習うより慣れろって言いますからね。住んでみれば馴染みますよ、きっと」
「ーー でも、仕事は、」

彼女が長い年月をかけて叶えた夢だ。
挫折して、それでももう一度と立ち上がり追いかけた。
彼女の努力の結晶を、保科は知っている。

「仕事?それこそ何の問題もないじゃないですか」
「え、」
「物書きなんて、紙とペンがあれば、どこででも出来ますよ」

そういうものか。
そういうものなのか。

「編集部とのやり取りも、一冊目ならともかく、今なら電話とネットで済みますしね」

彼女はあっけらかんと、保科の危惧を一瞬で払拭した。
この二ヶ月の葛藤は何だったのか、保科は頭を抱えたくなる。
悩んでいたことが馬鹿らしくなって、しかしすぐにそうではないと気付いた。
彼女の方が、おかしいのだ。
普通、二十年以上も暮らした母国を離れる決断がこんな一瞬で迷いなく出来るわけがない。
彼女はずっと前に、覚悟していたのだ。
保科がいずれ海外に移籍する可能性を、常に視野に入れていた。
満の例があったからかもしれない。
ずっと以前から、彼女の中ではすでに答えが出来ていた。
それは、どれほど深い愛情だろうか。

「……いっぱい悩んでくれたんですね」
「え?」
「口調。敬語に戻ってましたよ。緊張すると、そうなりますよね」

ふふ、と彼女は幸せそうに笑った。

「私なら大丈夫です。だから、連れて行って下さい」
「……うん、」

ああ、やはり敵わない。
離れられるわけなどなかった。
彼女がいないと、もう駄目なのだ。

「ごはん、温め直しましょうか」

彼女が椅子から立ち上がり、メインディッシュの皿二枚と味噌汁の椀をカウンターに乗せた。

「それにしてもセリエAかあ……凄いですね」

鶏胸肉のソテーをレンジで温め直しながら、味噌汁を鍋に戻す。
お玉でくるくると掻き混ぜつつ、彼女はカウンター越しに保科を見た。

「すまない、何の相談もなく」

こんなことなら、最初からきちんと話しておけば良かったと思う。
移籍まで半年しかない。
彼女の準備のためにも、もっと早く伝えるべきだった。

「そんなのいいですよ。いつかこういう日が来るかもしれないとは思ってましたし」
「そうだったのか」
「これからは一緒にイタリア語、勉強しないとですね」

温め直した料理を一旦カウンターに置いて、彼女が笑った。

「そのチームのことは、あまり詳しくないから分からないんですけど、」

セリエAというとどうしても、ユヴェントス、ミラン、インテルのビッグスリーが有名だが、保科の移籍先も非常に良いチームだ。
このチームに日本人が所属するのは、史上二度目となる。

「でも、すでに凄く楽しみなんです」
「楽しみ?」
「だって確か、クラブカラーって紫ですよね?」
「うん」
「東院の頃の拓己さんを思い出します」

それまで全く意識していなかったが、確かにそうだ。
大阪のチームはピンク、埼玉は赤、日本代表は勿論青。
卒業以来、紫をクラブカラーとするチームに所属するのは初めてのことである。

「やっぱり私の中では今でも東院の頃のイメージって強いんですよね。だから、ユニフォーム姿が楽しみです」

そう言って笑った彼女が愛おしくなり、保科はキッチンから出て来た彼女を抱き締めた。
この可愛らしい人を、この優しい人を、手放さなくていいのか。
置いて行かなくていいのか。
本当に一緒に、来てくれるのか。

「もう、また冷めちゃいますよ?」

腕の中でくすくす笑う彼女をきつく抱き竦め、保科は幸福を噛み締めた。



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