[63]日常
bookmark


朝食を終え、彼女に淹れて貰った茶を飲んでいた。
保科はこの後、埼玉のクラブハウスに赴く予定となっている。
本契約と物件探し、そして新しいチームメイトとの顔合わせ、一日がかりのスケジュールだった。
恐らく、全て終わるのは夕方頃になるだろう。
保科は、来週末のリーグ戦には、メンバーに選ばれるかどうかは別として、出場出来るコンディションを整えておきたいと考えている。
チーム練習には明後日から参加する予定だった。
つまり、実質的なオフは明日までだ。

「今夜、また来ても構わないか」

マグカップの中に息を吹きかけて茶を冷ましていた彼女が、顔を上げる。
きょとんと保科を見つめた瞳が、柔らかく細まった。

「勿論。晩ごはん作って待ってますね」

いつもそうだと、保科は思う。
いつだって彼女はこうして、保科を受け入れてくれた。
保科のようなスポーツ選手の生活は、本人はそれで良いとしても、傍にいる者からすれば身勝手極まりないだろう。
あっちへ行ってこっちへ行って、ひと所に落ち着く期間など殆どない。
移動が多いせいで、正確なタイムスケジュールが出るのも直前だ。
それに合わせることは、とても大変だろう。
だが、自分だって多忙だろうに彼女はいつも、快く保科の願いを聞き届けてくれた。
そのことに、保科はとても感謝している。


「送らなくて大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だ」

玄関まで、彼女が見送りに来てくれた。
必要のない物は置いて行っていいと言ってくれたので、荷物は軽い。
ここからなら電車の乗り換えも少ないので、タクシーを拾うほどでもなかった。
他に用事のない彼女に、わざわざ埼玉まで車を出して貰うのは申し訳ない。

「気を付けて下さいね。いってらっしゃい」

バッグを肩にかけ、スニーカーを履いたところで振り返ると、彼女にそう声を掛けられた。
その言葉で見送られるのも、果たして何年振りのことだろうか。
彼女と暮らせば、こんな日々が待っているのだろうか。

「行ってきます」

保科はそっと頬を緩め、彼女の家を出た。
傍を離れることに名残惜しさはあるが、同時に、とても力強い気持ちになる。
彼女が自分を待ってくれているというその事実は、保科をまるで無敵のような気分にさせた。


その日の予定は、滞りなく進んだ。
契約書にサインをし、諸々の手続きを済ませ、新居に求める条件を提示し、その条件に合う物件を探して貰っている間にチームメイトと顔合わせをし、互いの自己紹介を兼ねてミーティングに参加し、練習風景を見学し、その後出揃った物件資料一式を受け取った。
事前に提示していたクラブハウスから程近い1LDKという希望が、突然、3LDKのファミリー向けという希望に変わって担当者に驚かれた以外は、特に何事もなかった。
ご結婚されるんですか、という担当者の質問に否と答えながらも、保科は想像した。
彼女と結婚し、夫婦となる。
まだ気が早いのは分かっていた。
だがもしいずれ自分が誰かと結婚するならば、相手は彼女しか考えられない。
人としても選手としても未熟で、結婚について曖昧な理解しか出来ていない自分にはまだその資格はないが、いずれ彼女の人生を貰い受けたいと思った。
己の人生を懸けて、一人の女性を幸せにする。
そう出来る男になりたい。
保科は新たな誓いを胸に、帰り道を急いだ。

駅で電車を降り、彼女の自宅に向かって足早に歩く。
やがて見えてきたマンションを見上げると、彼女の部屋から明かりが漏れていることに気付いた。
そこで彼女が暮らしている明かり。
彼女が自分を待ってくれている明かり。
クラブハウスを出る時に、今から帰るという連絡は入れていた。
もしかしたら、彼女はあの明かりの中で夕食を作っている最中かもしれない。
そう考えるだけで頬が緩み、元々速足だった歩調は駆け足の一歩手前まで速くなる。
保科は勢いよくマンションのエントランスに飛び込み、インターホンを鳴らした。

『はーい、どうぞー』

やはり彼女は保科に何も言わせることなく、オートロックを解除する。
その声にいよいよ堪らなくなって、保科は七階まで駆け上がった。
丁度彼女の部屋の前に着いたところで、インターホンに手を伸ばしかけた保科を遮るように玄関ドアが開く。

「足音、聞こえてましたよ」

ふふ、と笑い声を織り交ぜながら、彼女が保科を出迎えた。
階段を一段飛ばしで駆け上がった自分の急ぎっぷりを思い出し、保科はばつが悪くなる。

「おかえりなさい」
「ただいま」

でも、彼女が楽しそうに笑っていたからそれでよかった。
保科を玄関に招き入れた彼女が、サンダルを脱いでフローリングに上がる。
保科に背を向け「今日は親子丼ですよ」と言いながら歩きかけたその背を、保科は後ろから抱き締めた。
ひぁ、と短い悲鳴が上がる。
保科は彼女の鎖骨の辺りに腕を回し、ぎゅう、と抱き寄せた。
彼女の匂い、彼女の温もり。
昨日初めて訪れたまだ慣れない家なのに、彼女の存在が保科に"帰って来た"と思わせた。

「お疲れ様でした、拓己さん」

驚いた様子だった彼女は、やがて柔らかな声音でそう言って、保科の腕をそっと叩く。
甘やかされていることを気恥ずかしく感じるよりも先に、ひどく安堵した。
夢ではなかったと、そんなことを思った。
夢だと思っていたわけではないのだが、そのくらい、保科にとって昨日からは驚きと幸せの連続だ。

「先にお風呂にしますか?」
「お腹、すいた」
「ふふ、じゃあごはんにしましょう」

笑いながら保科の腕の中から抜け出した彼女に続き、保科もスニーカーを脱いで部屋に上がった。
用意してくれていたのは栄養バランスの整ったヘルシーな食事で、だが節制を全く感じさせない味が保科の舌と胃を満足させる。
食後、ソファに並んで腰を下ろし、保科が貰ってきた物件の資料を一緒に見た。
正直に言って、保科はどこでもいい。
保科の望む、治安が良くてセキュリティが強固であるという、彼女の安全が最大限に考慮された条件はどの物件も満たしているのだ。
あとは彼女の好み次第と言っていい。
だから素直にそう伝えると、彼女は苦笑した。

「ほんと、拓己さんはサッカーのこと以外興味なさそうですね」

正確には、サッカーと彼女のこと以外、だ。
訂正せず黙り込んだ保科の隣で、彼女は笑いながら資料を捲った。
やがて、彼女はいくつかあった物件の候補を二つに絞って保科に提示する。

「この辺りでどうですか?」
「分かった。明日、一緒に見に行くか」
「私もいいんですか?」
「あなたの都合がいいのなら」

彼女が、柔らかく笑って頷いた。
保科は資料を受け取り、担当者に連絡を入れるためスマートフォンを引き寄せる。
新居がどれでもいいのは本心だが、それは決して、どうでもいいわけではない。
自分一人の家ならともかく、彼女と暮らす家なのだから、きちんと見て考えて決めたかった。
担当者に、明日見学出来るよう手筈を整えて貰い、通話を終える。
決まった時間を彼女に伝え、明日の予定を確認し合った。
明日は他に予定もないので、家を見に行って気に入ったら、そのまま家具も探しに行こうという話になる。
彼女とこんな風に同じことについて考え決めていくのは初めてのことで、それが楽しかった。
そして、彼女も楽しそうにしてくれているということが嬉しい。
保科とて、話が些か性急すぎたという自覚はあった。
いくら過去に交際経験がなくたって、付き合ったその日のうちに同棲を申し込むのが時期尚早だということは理解している。
彼女は困惑しただろう。
だが結果として彼女は了承し、 こうして一緒に、むしろ保科よりもきちんと考えてくれている。
その姿に、保科は安堵した。

そしてまた、二人で眠る夜を迎える。
今度は距離を取ることなく、最初から彼女を腕の中に抱き寄せた。
いつか、慣れる日が来るのかもしれない。
だが今の保科にそんな日はまるで想像出来ないほど、彼女の温もりに胸が苦しくなった。
膨れ上がった愛おしさが胸を圧迫し、息が詰まる。
腕が震え、手先が痺れて言うことを聞かなくなるほど、その存在に圧倒される。
苦しくて、喘ぐように呼吸を乱して彼女を強く抱き締め、余計に苦しくなって。
それでも、どう頑張っても手放せないのだ。
彼女の片腕がそっと保科の背に回される。
優しい手つきで背中を撫でられ、深く吐息を零した。

「この体勢、身体に負担かかってませんか?大丈夫ですか?」
「うん」
「なら、いいんですけど」

保科の二の腕に乗せた頭を気にしてか、彼女がそんなことを言う。
確かに人の頭が乗っているのだから、重量を感じないわけではない。
だが決して重すぎることはないし、昨夜で既に分かったことだが腕が痺れることもない。
心地良い、彼女がここにいるということを実感させてくれる、大切な重みだ。

「あなたがつらくないなら、そのままでいてくれ」
「……はい」

こくりと頷いた彼女の動きが、腕からも伝わってきた。
保科は彼女の頭を抱き込んだ手で、そっと後ろ髪に指を差し込む。
その頭に顔を寄せ、保科は目を閉じた。



prev|next

[Back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -