[61]重畳
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共に暮らすことを決め、互いに物件の条件を擦り合わせた。
立地、広さ、間取り、必要な設備。
保科は全くと言っていいほど拘りがなく、彼女が一人でいても問題のない確かなセキュリティさえ備わっていれば他は何でも良かった。
だから、彼女のリクエストをそのまま不動産屋に伝えるつもりで、彼女の提示する条件を書き留めていく。
とは言っても、彼女もあまり強い拘りは見せなかった。
クラブハウスから近く、駐車場があって、騒音の気にならない場所で、自分用の仕事部屋が一つ欲しく、出来ればキッチンが広いと嬉しい。
彼女の希望はそのくらいだった。
女性はもっと細かいことを気にするのかと思っていたが、彼女曰く、家も住めば都らしい。


「今夜、どうするんですか?ホテルですか?」
「いや、まだ決めていない」

新居の話がひと段落したのは、夕方頃だった。
ふと、窓の外を見て時間に気付いたらしい彼女が、保科の予定を確認してくれる。

「そうですか。拓己さんさえ良ければうちに泊まっても大丈夫なので、選択肢に入れておいて下さい」
「……いいのか」
「大丈夫ですよ。あ、でも、うち、来客用の布団がないので、一緒に寝ることになりますけど、それでも良ければ」
「…………は?」

保科は、ぽかんと間抜けに口を開けた。
今彼女は何と言った?

「だって、私はソファでもいいんですけど、拓己さんはそれは駄目って言うでしょう?かと言って、プロのスポーツ選手をソファで寝かせるわけにもいかないし。となると、後はもう一緒に寝るしかないんですけど」

さも当然のように聞かされた説明は、保科の耳を素通りする。

「………それは、俺ではなくむしろあなたにとって、許容出来ることですか?」

口調が元に戻ったのは、無意識だった。
彼女が何を考えているのか分からず、保科は困惑する。

「俺も一応、男なのですが」

信頼されている、と受け取るべきだろうか。
それとも、全く意識されていないのか。

「………どうしよう」

それまで、至って普通の顔をしていた彼女が、不意にそう呟いて俯いた。

「心臓に悪いです」
「はい?」
「拓己さんでも、そういうこと言うんですね。あんまり興味ないのかと思ってました」

彼女の分析は、おおよその意味で当たっている。
なぜ気付いたのかは分からないが、彼女の言う通り、保科はこの手のことに関して興味が薄く淡白だった。
だが彼女は、最も重要なことを知らない。
保科のその性質は、彼女に対してだけは例外だ。

「すみません、不用意なことを言いましたね」
「いえ……、俺も、不躾なことを」
「まさか。充分すぎるくらい紳士的ですよ、今のは」
「不快に感じたのでは?」
「どうしてですか。そんなことないです。好きな人にそういう目で見て貰えるのは嬉しいですよ」

はにかむような笑みを見せられ、鼓動が跳ねた。
彼女がなぜ自分を好きになってくれたのか、保科は未だ理解出来ていないが、それでもこんな顔をされては、彼女の好意を疑う臆病さなど失くなってしまう。
本当に彼女に好かれているのだと、いくら感情の機微に鈍感な保科でも分かってしまう。

「正直、そこまでは考えてなくて。普通に、一緒のベッドで寝たらあったかくて幸せかなーとか、そんな感覚だったんです。でもそれは女の理屈で、男の人にとってはそうじゃないのは分かってるので、」

彼女がそう言って困ったように苦笑した。
保科は急に、自身が酷く下卑た生き物のように思えて言葉を失くす。
正直、あまりにも唐突な提案だったので、瞬間的に彼女と同じベッドに入ることを想像した保科は、良からぬことまで考えた。
男にとって、好きな人と同衾するということは、どうしても性的なものを感じさせる。
その経験がない保科でも、咄嗟に意識してしまった。
だが、それだけではないのだ。
彼女の言う通り、恋人と共に眠るということは、どれほどあたたかく幸せなことだろう。
人間にとって最も無防備な時間を、愛する人と共有する。
互いへの信頼と好意があってこそ、成り立つことだろう。
想像するだけで、胸の奥が柔らかく綻んだ。

「誓って、不埒なことはしません」
「はい?」
「ですから、泊まっても構いませんか」
「……はい、どうぞ」

彼女が、ふわりと笑う。
それを見て、保科も頬を緩めた。


昼食に引き続き夕食も、彼女の厚意に甘えて作ってもらう。
ただ健康に気を遣っただけではない、スポーツ選手の身体作りを考慮したメニュー。
その瞬間の思い遣りだけでは、きっと用意出来ないものだ。
しかも驚くほど美味しいのだから、保科としては感謝し感動するしかななった。
保科は普段、食事の際、美味しい美味しくないということをあまり意識しない。
空腹を満たす、エネルギーを補給する、体重を落とさないようにする。
そういった目的意識の方が強く、食事そのものもを楽しむ感覚があまりなかった。
だからこそ、ひたすらに美味しいと感じながら食べる食事が特別に思える。
そして目の前には、同じ食事を一緒に食べる彼女がいるのだ。
保科が食事中にあまり話さないのだということを、正確には食べることに夢中で言葉を忘れるだけなのだが、理解したのか彼女はあまり話しかけてはこなかった。
それでも時折言葉を交わしながら、共に食事を楽しむ。
その時間はとても幸福なものだった。


「お風呂、先にどうぞ」
「いや、あなたから、」
「そうですか?じゃあ、ちょっと待ってて下さい」

夕飯を終え少しのんびりと胃を休めた後、交代で風呂に入ることになる。
リビングに一人残った保科は、微かに聞こえてくシャワーの音にどぎまぎした。
これを意識するなというのは、無理な話だと思う。
俗に言えば、童貞には刺激が強すぎるということだろう。
その通り、保科にはこういった状況への耐性が全くなかった。
彼女が今風呂に入っているということはつまり、数分後、風呂上がりの彼女がリビングに戻って来るということだ。
果たして、保科がその姿を見ることは失礼にあたらないだろうか。
いや、別に彼女は、たとえば実家にいた頃の満のように上半身裸で出て来るわけではない。
だが女性の風呂上がりだ。
やはり男が見ていいものでは、恋人ならばいいのか。
ソファに腰掛けた保科の脳内は、大層混乱していた。
その間に無情にも時間は流れ、保科の内心など知る由もない彼女が平然とリビングに戻って来る。
その姿はやはり、目の毒だった。
パジャマなのか、どちらかといえばルームウェアなのか、暖かそうな素材のワンピースを着ている。
服の種類という意味では、先程まで彼女が着ていたものと大差ないはずなのに、全体的に緩やかなラインが、それが外出のためではなく自宅で休むための衣服であることを主張していた。
肩に掛けたタオルで濡れた髪を拭きながら戻って来た彼女の姿は、あまりに無防備である。
まじまじと彼女を見つめてしまった保科は、そんな己に気付き、さりげなく視線を逸らした。

「お先でした。拓己さんもどぉぞー」

身体が暖まったからなのか、シャワーを浴びてすっきりしたからなのか、彼女の声音が柔らかく間延びしている。

「バスタオルはラバトリーにあるの適当に使って貰っていいんですけど、着替えとか、あります?」
「……うん」
「よかった、流石にサイズがないですからね」
「遠征帰りだから、一通りは」
「丁度良かったです。普通の作りなんで、特に何も問題ないと思いますけど。何かあったら声をかけて下さい」

そんな彼女の言葉に促され、保科はバスルームに向かった。
正直、自分がどのようにして身体を洗い、湯船に浸かったのか、あまり覚えていない。
気が付けば保科は、寝巻きにしている馴染みのジャージと長袖のシャツを着て、鏡の前で髪を乱雑に乾かしていた。
何も、今我に返らなくても、というタイミングである。
手を動かす度、バスタオルから明らかに自分のものではない柔らかな匂いがふわりと漂うのだ。
これが彼女の自宅の柔軟剤、つまり洗い上がりの匂いなのだろう。
それにいちいち心臓を跳ねさせる己の、なんと滑稽なことか。
でもそれが嫌ではないのだから、恋とは不思議なものだ。
とても満たされる感覚と酷く飢える感覚が共存する、儘ならない感情。
結局のところ、確かなのは彼女が好きだという想い一つなのだろう。


「ここに越して来る時に奮発してダブルを買ったので、狭くはないと思うんですけど」

そんな言葉と共に案内された、彼女の寝室。
仕事部屋はまた別のようで、寝室は至ってシンプルだった。
彼女の言う通り、部屋の大半を占めるのは鎮座したダブルベッドで、あとはクローゼットと洋服箪笥、それにドレッサーがあるくらい。
彼女は照明を絞って部屋を薄暗くし、掛け布団を捲った。
そして、その中にするりと潜り込む。
薄い橙の常夜灯の下、保科は足に根が生えたかのように立ち尽くした。
正直、ソファでいい、いやむしろ床でもいいからと今すぐ言い出しそうな心境だ。
いくら覚悟を決めたところで、この状況はあまりにも心臓に悪かった。
しかしここまで来ては、もう引き返せない。
それに、彼女の傍で眠る幸福を知りたいという願いも本心だった。

「あ、もしかして真っ暗な方がいいですか?」
「いや、」

彼女の見当違いな気遣いに、止まっていた保科の時間がようやく動き出す。
保科はベッドに歩み寄り、その上に恐る恐る膝をついた。
そのまま、慎重に身体を横たえる。
ベッド自体は、何の不満を抱くべくもない上質なスプリングで軋むこともなく保科の身体を受け止めた。
むしろ、煩いのは保科の鼓動の方だ。
ばくばくと跳ね回る心臓は、どう考えても今から眠ろうとする人間のそれではない。
これは夜通し起きていることになるかもしれないと、保科は方向違いな覚悟をも決めて、掛け布団をそっと引き上げた。
彼女はベッドを広く使うのが好きなのか、一人で使うには大きいであろうロングピローを置いている。
つまり、一つの枕を二人で共有することになる。
ダブルサイズのベッドも含め、決して狭いわけではなく、むしろ余裕があるほどなのだが、いかんせん何もかもが初めての保科にとっては刺激が強すぎた。
同じ枕に頬を埋め、互いに向かい合う。
視線が絡んだ瞬間、流石に彼女も気恥ずかしそうな表情になった。
保科は、部屋が暗くて良かったと心底思う。
恐らく自身の顔は酷いことになっていると自覚していた。
新居のリクエストにもあった通り、仕事の関係上か、彼女は静かな生活を好むのだろう。
この家は外の音が殆ど聞こえず、静かだった。
寝室に入ってドアを閉めてしまえば、家電の稼動音さえ耳に届かない。
その静寂の中では呼吸の音だけでなく心臓の音まで彼女に聞こえてしまいそうで、保科は息を潜めた。

「……緊張、してます?」
「うん」
「私もです」

沈黙を破った彼女が、そう言って小さく苦笑する。

「眠れそうですか?」
「……いや、」
「ですよね。ホテル取って貰った方が良かったかな」

彼女のその発言が、サッカー選手としての保科を気遣ったものであることは分かっていた。
だが、こうしていることを後悔しているようなその言葉が、保科の胸に爪を立てる。

「……今、あなたを抱き締めたら、それは不埒なことに入るのだろうか」

気が付いた時には、そう訊ねていた。
目を瞬かせた彼女が、一拍置いてからふっと噴き出すように笑う。

「どうでしょう」

曖昧な返事をして、彼女はしかし、明確に保科の方へと身体を寄せた。
それを答えだと受け取り、保科は彼女の身体に腕を回す。
左手で彼女の背を引き寄せ、右手で彼女の頭を抱き込んだ。
鼻のすぐ下に彼女の頭があって、洗ったばかりの髪からシャンプーの匂いが先程よりも強く保科の嗅覚を刺激する。
恐らくその下に下着以外何も着ていないのであろうワンピースは、保科の手に彼女の形と温もりを鮮明に伝えた。
間に衣服を二枚挟んで触れ合った身体は、息が詰まるほどにあたたかくて愛おしい。
保科は腹の底から吐息を零し、彼女を強く抱き締めた。

なぜ。どうしてこんなに。

緊張も、良からぬ考えも、全てを凌駕して溢れ返る泣きたくなるほどの愛おしさ。
胸板に摺り寄せられた彼女の額の感触に、吐き出す呼気が震えた。



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