[55]成就
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三月二十八日。

保科です。
卒業おめでとうございます。
俺は昨日、ベルギーとの親善試合を終えました。明日、午前の便で成田に着きます。新居がまだ決まっていないので、しばらくはホテル暮らしになりそうです。都合の良い日があれば、教えて下さい。あなたに会いたいです。


日本代表のベルギー遠征は、国際Aマッチデーの期間中に行われた。
FIFAランキング五位のベルギーはやはり強く、試合に勝つことは出来なかった。
だがその分、課題は明確になったと言えるだろう。
日本代表は今後、五月に行われるキリンチャレンジカップを最後の調整試合とし、六月にいよいよW杯本戦を迎える。
今が、登録メンバー二十三人に選ばれるための、最後のアピール期間だった。


遠征、お疲れ様でした。気を付けて帰って来て下さいね。
私の方は、先日卒業式がありました。学生生活もこれで終わりかと思うと、不思議な感覚です。作家デビューという意味ではもうその道は始まっていたのですが、いよいよここからが本番だな、という気がしています。
保科さんが帰国したら、お会いしたいですね。


彼女からの言葉を胸に、ベルギーを発つ。
ブリュッセルから成田まで、約十二時間。
保科はその半分を寝て過ごし、もう半分は機内に持ち込んだ彼女の本を読みながら過ごした。
ベルギー遠征の前に大阪の部屋を解約する際、荷物の殆どは一旦実家に送り、日常的に必要なものだけバッグに詰めてベルギーに飛んだ。
保科はあまり物を持たないから、こういう時は身軽で楽だ。
帰国したらクラブハウスに顔を出して、本契約の手続きをし、物件の候補をいくつか紹介してもらうつもりだった。
ある程度の年俸を貰っていれば自分で家を買う選手も多いし、実際保科も、そうしようと思えば出来る。
だが住まいというものにさしたる拘りのない保科は、維持管理に手間の掛かる豪邸など必要ないと考えていた。
だから、クラブが提携している不動産業者に物件をリストアップして貰い、その中から決めようと思っている。
大阪で住んでいたマンションも、同じようにして借りた物件だった。
保科の年俸だと、1LDKの小さな部屋に住んでいるのは異例のことらしい。
毎年契約の更新をする度、もっといい家に住めばいいのにと言われたものだ。
だが保科にとしては、セキュリティが強固でクラブハウスから近ければ、他に必要な条件などなかったのである。
いつだったか、その年俸ならこれくらい、と言って例として提示された豪邸の間取り図を見て、保科は無言で首を横に振った。
一人で暮らすのにそんなに広い必要がどこにあるのだろうか。
この春からプロ七年目となる保科の生活は、一年目の頃と何も変わっていなかった。
加えて、趣味はなく美食家でもなく、贅沢も好まず物欲もない。
給与は貯まる一方だった。
この先もそれは変わらないだろう。
どうせまた、保科が物件の条件を提示すれば唖然と聞き返されるのだ。
本当にそんな所でいいのかと、再三確認されることは分かっていた。

直行便で成田に到着し、入国審査を済ませる。
携帯品申告書を税関に提出して到着ロビーに出た。
このままクラブハウスに向かおうかと、保科は脳内で新しいチームのホームタウンまでの乗り継ぎを思い浮かべる。
今夜以降のホテルの予約は、移動中に済ませればいいだろう。
保科はそう決めると、エナメルのバッグを肩に掛け直そうとして、そして目にした光景に驚き固まった。

「おかえりなさい」

ぽかんと、口が半開きになる。
目を瞠った保科の視線の先、そこには彼女が立っていた。
柔らかそうなクリーム色のコートに、茶色のブーツ。
ハンドバッグを両手で持って、彼女はそこにいた。
夢でも幻覚でもない。
この二年、保科が会いたいと希い続けていた人が、保科を待っていた。

「……どうして、ここに、」

声が掠れる。
まさかこんな驚きがあるなんて、想像もしていなかったのだ。
確かに、今日帰国するとは言ってあった。
だがフライトの時間は伝えていなかったし、そもそもこうして出迎えられるなんて初めてのことである。

「メールに午前中って書いてあって、調べたら今日の午前中に到着するブリュッセルからの直行便はこの便だけだったので。待っていたらここで会えるかな、と」

なるほど、彼女が保科の到着時間を読めた理由は理解した。
しかし根本的に、わざわざ出迎えてくれた理由が思い当たらない。
保科が何も言えないでいると、その沈黙を問いの続きと判断したらしい彼女が、どこか困ったように眦を下げた。

「ここに来た理由を説明すると、ちょっと長くなるんですけど。でも、とりあえず一番の理由だけ伝えるなら、早く会いたかったから、です」

そう言って、言葉尻を小さくし、彼女がはにかむように笑ったから。
保科は二人の間にあった距離を大股二歩で詰め、彼女を抱き寄せていた。
保科の胸板に顔を直撃させることになった彼女が、ふむん、と間の抜けた呻き声を漏らす。
それすら可愛くて、愛おしくて、保科は彼女を掻き抱いた。

「ーー 会いたかったです」

抱き締めて、彼女の頭に頬を寄せ、思いの丈を吐き出す。
会いたかった。
やっと会えた。
彼女が、会いに来てくれた。
それが嬉しくて、二年振りの彼女の匂いと体温が堪らなく愛おしくて、保科は身体の底から吐息を零す。
震える腕の中で、彼女が小さく頷いた。
そんな反応一つにまた嬉しくなって、保科は彼女を抱き締める腕にぎゅっと力を込める。

「……保科さん、あの、流石にそろそろ、」

胸元で彼女がそう言うまで、保科はその身体を離せなかった。

「すみません」
「いえ、私よりむしろ保科さんの方が……そういうの頓着してないのかもしれないですけど、有名人なんですよ?」

そう言って彼女が、さりげなく周囲に視線を巡らせる。
確かに、決して人混みではないが、衆目がないわけでもない。
国際線の到着ロビーなんて、久しぶりの再会に喜び合う人が多い場所なので奇異な目で見られることはないだろうが、あまり注目を浴びるのも良くないだろう。

「えっと……、この後は、どういう予定ですか?」
「決まった予定はありません。つい先程までは、このまま一度クラブハウスに向かおうかと考えていましたが、誰かと約束があるわけではないので、」

気まずそうに視線を逸らした彼女に問われ、保科は素直に答えた。
言外に、あなたに会えたのだからそんな考えはもうどうでもいい、と伝える。

「じゃあ、帰国したばかりでお疲れのところ申し訳ないんですけど、少しお話しする時間を貰えますか?」

改まった様子の申し入れに、保科は内心たじろいだ。
話、とは。
しかしここで拒否をするという選択肢はあり得ないし、保科だって彼女と少しでも長く一緒にいたい。
勿論、と頷けば、彼女はほっとしたように頬を緩めた。

人目を避け、展望デッキに移動する。
目の前に広がる滑走路の様子をしばらく眺めていた彼女が、やがて意を決したように保科を振り返った。
どこか、思い詰めたような表情に感じられる。
これまでに見たことのない様子に、保科は黙って彼女の言葉を待った。
胃の中が掻き回されるような、奇妙な緊張感だ。
何を言われるのかと身構えた保科の視線の先、彼女が躊躇いがちに唇を小さく動かし、やがて呟くように話し始めた。

「……もしかしたらもう、遅いかもしれないなって、思ったし、今更だって言われたら、ほんと、その通りだと思うんですけど、」

胃の中が云々どころではない。
彼女が今日ここに来た最大の理由を理解し、保科の心臓がばくんと跳ねた。
これは、返事だ。

「……でも、これだけはちゃんと、伝えたかったので、」

四年前、彼女は考える時間が欲しいと言った。
その考えた結果が、今彼女の中にあるのだろう。
果たしてそれは、保科が切望し続けた答えか否か。
喉がカラカラに渇き、変な汗が背中をじっとりと濡らした。
相槌すら打てない保科を他所に、彼女は言葉を選びながら話を進めていく。

「もう、逃げないようにと思って、今日ここに」

何か言おうと思っても、声が出なかった。
代わりに保科は、頷くことで彼女の意図を理解した旨を伝える。
保科ほどではないにしても、彼女も緊張している様子だった。
返事の内容がどちらであれ、誠実に向き合ってくれた彼女にとって、返事をするために会うというのは勇気のいることだったのだろう。
なかったことにしてしまうことだって出来たはずなのに、彼女はこうして自分の意思で保科に会いに来てくれた。
そういうところが、とても好きだと思った。

「保科さん、」
「……はい」

この瞬間、彼女に振られても、きっと彼女のことが一生好きなのだろう。
彼女が将来誰と結婚し、どんな人生を歩んでも、きっと焦がれ続けるのだろう。

「わたし、」

そう思える人に、保科は出会えたのだ。
でも、だからこそ。
誰にも渡したくない。
何にも譲れない。
だってこんなにも、彼女のことが。

「私、保科さんのことが、好きです」

こんなにも、好きだ。

「…………え?」
「…………そこで、聞き返しますか」

聞こえなかったわけではない。
だが、聞き返さずにはいられなかったのだ。
彼女が照れ臭そうに、保科を見上げる。

「……あなたが、俺を、好きだと?」
「そう言いました」
「………本当に?」
「本当です!」
「………俺を、ですか?」
「もう、意地が悪いですよ」

彼女の瞳が、保科を睨み付けた。
だがそれは、頬を赤く染めた上目遣いにしかなっていない。
つまりとても可愛らしい。

この、かわいいひとは、いまなにをいった?

「………あの、保科さん?」

言葉を失くした保科に焦れて、彼女がおずおずと声を掛けてくる。

「やっぱり、もう遅いですか?」

照れ隠しのように保科を睨んでいた瞳が徐々に翳り、やがて悲しげに伏せられた瞬間、保科は再び、今度は力の限りに彼女を抱き締めていた。
顔が、胸が、身体のあらゆる所が熱い。
何かが身体の奥で弾け、内側から全身を圧迫するようだった。
息が詰まる。
泣きたくなるほど苦しくて、彼女に縋り付けば縋り付くほど、それは酷くなった。
それなのに、どうしても離したくなくて、強く掻き抱く。

「ーーー 好きです」

四年越しの告白、六年分の想い。
喘ぐように呻くように告げた言葉は、彼女に届いただろうか。
保科が堪えきれなくなって彼女の肩に額を押し付けると、彼女の細い腕が恐る恐る保科の背に回された。
慎重に、確かめるように背中に触れ、そっとなぞり、やがて彼女がぎゅっと力を込めて保科を抱き締め返す。
その感触に、涙が零れそうだった。



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