[39]稚気
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九月二十九日。

保科です。
試合観戦、怪我のないよう楽しんで下さい。あなたに不甲斐ない姿を見せることにならないよう、尽力します。
もし時間があれば、試合後、会って頂けますか。


いつもと同じ試合前だった。
ストレッチとランニングを済ませてからホテルに戻って朝食を摂り、バスで会場入りしてピッチの状態を確認した後、ミーティングを済ませてウォーミングアップ。
やることはいつもと何も変わらない。
適度な緊張感と、適切な準備。
それでも気分がいつもより高揚していることを、保科は自覚せずにはいられなかった。

ウォーミングアップのために立ったフィールドで、観客席をざっと見渡す。
無論、この大勢の中から彼女の姿を見つけられるとは思っていなかった。
それでも、どこかにいるのだ。
この試合を観に来てくれている。

彼女が試合のチケットを取ったと教えてくれた時から、保科は今日この日を楽しみにしていた。
これまでにも、彼女を観戦に誘ってみようかと考えたことがなかったわけではないのだ。
だが彼女が忙しいことは知っていたし、わざわざ会場に来て観戦するほどには興味がないだろうと思い遠慮していた。
だから、まさか彼女の方からこうして来てくれるとは、夢のようである。
すぐさまメールを返し、今度から先に言ってくれればチケットを用意する、と提案したくらい嬉しかった。
そしてそのメールに対する彼女の返信がまた、保科の彼女に対する想いを募らせたのだ。

チケットの件、お気遣いありがとうございます。でも、保科さんからすると微々たる金額かもしれないですけど、私も自分で稼いでます。だから、これからもちゃんとお金を払って観に行きたいです。

友人という間柄を利用することなく、彼女は保科の仕事に敬意を払ってくれた。
そういうところを、保科はとても好ましく感じる。
同時に、いつか甘えてもらえるような関係になりたいとも、思った。

間もなくキックオフ、試合が始まる。
保科は目を閉じ、一度大きく深呼吸をした。
余分な力を抜き、思考をクリアに。

無様な姿は、見せられない。

ホイッスルが鳴り響く。
冷静に、堅実に、丁寧かつ迅速に。
保科はボールを捌き、ピッチを駆けた。
前半十七分に、保科のアシストで一点目。
後半十一分に、保科のセンタリングから二点目。
そして後半二十七分、保科は三十メートルのロングシュートをゴールに叩き込んだ。

客席に、ガッツポーズを向ける。
普段滅多にこの手のパフォーマンスをしない保科のアピールに、サポーターが沸いた。
子どもの頃、それこそ中学時代は、ゴールを決めると思わず拳を突き上げたりしていたものだ。
まだ、"好き"や"楽しい"が、サッカーをする理由の先頭にあった頃のことである。
今も、決してサッカーが好きでなくなったわけではないし、楽しくなくなったわけでもない。
だが、全中決勝での罪は、保科から無条件のプレーを奪った。
自分のやりたいサッカーではなく、チームのためのサッカーが第一になった。
それは決して悪いことではない。
むしろ保科をサッカー選手としてより優秀にし、特にMFとしての実力を確かなものとした。
だが、理性的かつ献身的なプレーを心掛けるようになってから、保科が試合中にガッツポーズを作って喜びを露わにするようなことは殆ど失くなった。
保科の珍しい姿に、チームメイトたちが驚いている。
そもそも、保科がロングシュートを打つこと自体が、かなり稀なプレーだった。
保科は基本的に、自らのゴールに固執するタイプの選手ではない。
チームの得点のため、最善を模索するMFだ。
常に確率の高いプレーを選ぶ堅実な保科の、珍しくも我が強いシュートは、チームの士気を最高潮に盛り上げた。

試合は三対零。
ワンゴールワンアシストで、保科はヒーローインタビューを受けた。
アウェーのため、保科のインタビューが会場に流れることはないが、当の本人が形式通りのつまらない受け答えだと自覚しているので、それは問題にならない。
言葉で伝えることは不得手なのだ。
今日はプレーで見せることが出来た。
それでいい。
保科は試合内容に満足し、最後にもう一度会場を見渡してからロッカールームに戻った。


試合、お疲れ様でした!すごかった!ほんと、すごかったです!興奮しすぎて、何て言えばいいのか分からないんですけど、とにかくすごかったです!後でちゃんと伝えますね。
近くで、適当に時間を潰しています。急いで帰る予定はないので、保科さんの都合に合わせますよ。終わったら連絡を下さい。


珍しくも感情が剥き出しになった彼女のメールに、保科はそっと笑みを零す。
何よりの褒美だと思った。
念入りにストレッチをして着替え、バスの時間を確認してから外に出る。
彼女にメールを送ろうとして、この場合は電話の方が適切かと、スマートフォンを操作した。

『はい、もしもし』
「保科です」

連絡先を交換してから、九ヶ月。
メールではなく電話をするのは初めてだった。

『お疲れ様です!』
「ありがとうございます。今どちらですか」

耳元で聞こえる彼女の弾んだ声に、背筋が甘く痺れるような感覚。

『まだ敷地内ですよ。スタジアムの南側に、薔薇園があるじゃないですか。その辺りです』
「そのまま、そこで待っていて頂けますか」
『構わないですけど、ここで大丈夫ですか?その、保科さんがこんな所にいたらバレませんか?』
「ユニフォームを脱げば、基本的に気付かれません。しかもアウェーですから、問題ありません」

彼女の了承を聞き届け、通話を終えた。
たった一分弱の電話が、ここまで鼓動を乱すとは。
保科はスマートフォンをポケットに仕舞って歩き出しながら、無意識のうちに右耳に触れていた。
脈拍と共に、足が自然と速くなる。
最後は殆ど駆けるようにして、保科は薔薇園の近くに辿り着いた。

「………ミョウジさん、」

小道脇のベンチに、彼女が腰掛けている。
背後からそっと名前を呼ぶと、彼女は振り返り、そして華やぐように笑った。

「お疲れ様です!」

立ち上がった彼女に、保科は一瞬で目を奪われる。
それを考えていなかった。
彼女は、当然ことながら私服なのだ。
もう、高校生の頃のように制服やチームジャージを身に纏っているわけではない。
保科が初めて見る彼女の私服姿だった。
それはとてもシンプルだ。
デニムのショートパンツと、ピンクのTシャツの上に明るいグレーのパーカー。
足元はハイカットのスニーカーで、ポシェットを斜め掛けにしている。
髪は後ろで一つに纏められていた。
それが普段から彼女が好む格好なのか、それともサッカー観戦というTPOに合わせたものなのかは分からないが、Tシャツは保科のチームのクラブカラーを意識してくれたのだろう。
ボーイッシュな格好が、とても可愛らしい。
剥き出しの太腿をまじまじと見つめてしまい、保科はさりげなく視線を外した。

「すみません、お待たせしました」
「いえいえ、大丈夫です」

試合は、観戦する方も体力を使う。
座りませんか、と彼女をベンチに促した保科は、その隣に少し距離を空けて腰を下ろした。

「楽しんで頂けましたか」
「とっても!プロの試合を生で観たのは初めてだったんですけど、本当に凄かったです」

保科が訊ねると、彼女は堰を切ったように話し始めた。
年齢以上に落ち着いたところのある大人びた人だという彼女に対する保科の印象を裏切るかのように、身振り手振り、楽しそうに彼女は語る。
以前、彼女がサッカーについて話す時、それはいつも聖蹟の勝敗を懸けた大事な情報戦だった。
だが今は一観客として単純に試合を楽しみ、その感想を夢中で語ってくれている。
しかも、他にも活躍した選手は大勢いるのに、ずっと保科の話をしてくれているのだ。
あのカットが鮮やかだった、あの選手からボールを奪った瞬間が凄かった、あのパスがとても綺麗だった、あの時相手の動きを読んであの位置にいたのが驚いた、そして。

「あのロングシュート、本当に感動しました。私、あんなに格好良いシュートを見たのは初めてです」

興奮の余韻がまだ残っているのか、彼女は頬を少し上気させ、キラキラとした瞳で隣に座る保科を見上げた。
どん、と鼓動が跳ねる。
彼女よりも可愛らしいものは他に存在しないと、保科は本気で思った。
自分のプレーをこれでもかとばかりに絶賛され、シュートが格好良かったと言われ、さらにそんな可愛らしい笑顔まで見せられて、彼女に見惚れた保科は完全に言葉を失う。
黙り込んだ保科に何を思ったのか、彼女は焦った様子で付け足した。

「すみません、なんか、ほんと素人目線で」
「……いえ、いいえ、」

確かに、分かりやすく単純な感想もあった。
だが相変わらず着眼点が面白く、よく気付いたと保科が感心させられるほど細かい点も多い。
一見地味な、何でもないことのように思えるだろうプレーについても言及されていた。
充分すぎるほどに、サッカーをよく理解した者の感想である。

「すみません、俺はあなたのように上手く言葉に出来ない。でも、俺は今とても嬉しいです。あなたに、そんな風に言って貰えるとは思っていませんでした」

誰かに褒められるためにサッカーをしているわけではなかった。
正直、サッカーを続ける明確な理由などもうないのだ。
それしかない。
それ以外の道は存在しない。
ただその事実だけがある。
だから、人からの評価を保科は気にしなかった。
無論、チームメイトとの相互理解による連携は重要だし、監督の求めるプレーをしようとは思う。
そうでなければプロとしてはやっていけないのだから、当たり前だ。
だがそういった実践的な視点ではない、たとえば評論家の意見だとかマスコミの報道だとか、そういったものに興味はなかった。
調子が良ければ褒め称えられ、調子が悪ければあることないことを勝手に推し量られ叩かれる。
プロのスポーツ選手とはそういうものだ。
保科は、自分の預かり知らぬところで何を言われていても構わないと思っている。
だからこそ、こんな風に、真正面から自分のプレーに対する純粋な感想を聞くことがとても新鮮なのだ。
しかも驚くほどの大絶賛である。
確かに自身でも満足のいく試合内容ではあったが、ここまで感動されると些か気恥ずかしかった。
本当に、彼女に観てもらえてよかったと思う。
彼女の言うロングシュートは、正直、あの状況で保科が取るべき行動の最善ではなかった。
確率的には、センタリングを上げるのがベストだったと分かっている。
だが敢えて保科は、次善策を取った。
あの距離を自ら打ち抜く方に賭けたのだ。
自信はあったし、事実シュートは決まった。
だが、自分らしくないプレーだった。
なぜそうしたのか、あのコンマ一秒で何を考えたのか、それは無意識のうちの彼女に対するアピールだったのだ。
今日この試合でなければ、きっと打たなかった。
そう白状したら、彼女は保科を軽蔑するだろうか。
彼女は本当に自分を狂わせると、保科は思った。



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