[36]距離
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四月三日。

おはようございます、保科です。
いよいよ入学式ですね。おめでとうございます。
新しい環境に慣れるまで大変だと思いますが、体調管理には充分気を付け、頑張って下さい。


朝のストレッチとランニングを終え、自宅に戻る。
シャワーを浴び、なぜか殆ど生えない髭が相変わらず今日も剃るほど伸びていないことを一応確かめ、バスタオルで髪を乾かした。
保科が借りているのは、1LDKのマンションだ。
昨年、本チームに合流した際、やたらと高価で広いマンションを勧められたが、保科はそれを丁重に断って今のマンションに住み続けている。
そもそも、チームの管理する賃貸でなくたって、住みたい家を自分で選べる程度の収入はあるのだ。
だがこれといって引っ越しの必要性を感じていない保科は、大阪に来た時からずっと同じマンションを借りている。
特段気に入っているというわけではないが不便はない、理由などそれで充分だった。
どうせ、殆ど寝るためだけの家である。
無駄に広い必要はなかった。

バスタオルで髪を掻き混ぜながら、天気予報を確認する。
今日は全国的に天気が良いようだ。
大阪も東京も、晴れマークがついている。
卒業式に引き続き、入学式も晴れで良かったと、保科は遠くにいる彼女のことを考えた。

彼女と、週に一、二度メールを往復させることが習慣化し、約三ヶ月。
そのやり取りの中で知ったのだが、彼女の進学先は全国でも偏差値トップクラスの有名な大学だった。
恐らく勉強は得意な方なのだろう、だなんてとんでもない。
彼女は、頭が良いという評価から想像出来る要素の全てを持っていた。
幼い頃から本を多く読み、そして書くことを習慣としてきた地頭の良さ、それに加えて努力家でもあるのだろう。
非の打ち所がない人というのは存在するのだと、彼女のことを知る度保科は素直に驚嘆する。


こんにちは。
先週末の試合、テレビで観ましたよ!後半終了間際の保科さんのフリーキック、最高でした。すごかった!テレビの前で一人で騒いで、我に返って恥ずかしくなりましたけど。本当にすごかったです。お疲れ様でした。
昨日、大学の入学式に行って来ました。今週はガイダンスやオリエンテーションがあり、授業は来週からになります。高校とは違い、とにかく何もかも自主性、自己責任なので慣れるまでは気を抜けませんが、こういうのは性に合っているみたいで楽しいです。
そういえば、保科さんが好きだと仰っていた本が図書館にあったので借りて読んでみました。主人公の最後の台詞がとても印象に残っています。なるほどそこに繋がるのか、と。こういう余韻の残る小説を、私も書けるようになりたいです。実は先日、執筆した作品を何年かぶりに応募しました。リハビリのような感覚だったので期待はしていないのですが、やはり少し緊張するものでした。駄目でもめげずに、チャレンジし続けようと思います。


保科はいつからか、彼女からのメールを読むのは一人でいる時だと決めていた。
挙動不審になるのが自分で分かったからだ。
だって仕方ないだろう、と保科は思う。
前々から気付いているが、やはり彼女は保科を喜ばせる天才だった。
最高でした、すごかった。
惚れた女性からそんなことを言われて、男が喜ばないはずもない。
彼女に他意はなく、ただ試合を観戦して感じたことをそのまま言葉にしてくれただけだろうが、保科にとっては最高の褒め言葉だった。
彼女がテレビ越しに自分の姿を見て、そのプレーを見て、凄いと思ってくれたのだ。
決まったシュートに、喜んでくれたのだ。
最近はいつもこうして、試合を観てその感想を伝えてくれる。
彼女がそうと口にしたことはないが、保科とやり取りするメールの話題とするために、試合をチェックしてくれているのかもしれない。
恐らくそれが、彼女なりの礼儀なのだろう。
そうだとしたら、とても律儀なことだと思う。
だがそれが嬉しいのだから、保科は口が裂けても「無理に観なくてもいい」とは言えなかった。
先月末から一人暮らしをしている部屋のテレビの前で試合を観戦し、ゴールの瞬間に身を乗り出す彼女を想像するだけで、保科の唇はむずむずと緩む。
とても、他人に見せられる顔ではないと思った。

新生活を、彼女は楽しんでいる様子だ。
要領が良いのか、適応力が高いのか、あまり不安を感じているような雰囲気ではない。
保科にそういった部分を見せるほどの信頼を寄せていないだけかもしれないが、文面を真に受けていいのならば、彼女は充実した生活を満喫しているようだ。
保科に大学生活の経験はないが、聖也から話を聞く機会は多かった。
何もかもが新鮮で、目が回ることもあるが概ね楽しく、世界が広がるような感覚だ、と。
彼女もそのように感じているのかもしれない。
興味のある分野を専門的に学ぶというのは、きっと楽しいだろう。
新しい環境、新しい出会い。
彼女の世界もまた、これから大きく広がっていくはずだ。
保科の知らないところで。

少し、距離が近付いた気がしていた。
別の学校ではあったし、選手とマネージャーという違いもあったが、三年間をサッカー部に捧げたという共通の過去。
共に敗戦も知った。
彼女の考え方に触れ、その分析に協力したこともある。
対梁山や対桜高は、どこか共同作業のようでもあった。
彼女のマネージャーとしての尽力は、他校生でありながら、保科はかなり深く理解していたように思う。
彼女のことを何も知らないとは自覚しつつも、保科はサッカーを通して彼女に親近感を覚えていたのだ。
だがこうして彼女がサッカーを離れ新しい生活を始めると、その距離は急に遠ざかったような気がした。
ただでさえ足りないのに、保科の知らない彼女がまた増えていく。
彼女がメールをくれる度、そこに書かれた以上にどれほどの経験を彼女がしたのだろうかと、それを知ることの出来ない身が恨めしくなった。
過去が手に入らないのは仕方ない。
どれほど想っても、彼女の過去に保科が干渉することは出来ない。
だが現在進行形で、こうして彼女が保科の知らないところで自分の世界を広げていく様は、酷くもどかしくて苦しかった。
どんな授業を選択し、どんな友人が出来て、どんな話をするのだろう。
大学で、アルバイト先で、一人暮らしの部屋で、彼女はどんな生活をするのだろう。
そこに、保科の存在はない。
せいぜい、たまにメールをする、テレビの向こう側のサッカー選手だ。
きっと何も特別ではない。
もっと会えたらいいのにと思っても、そう簡単な話ではなかった。
試合で東京に遠征することはわりと頻繁にあるが、移動や練習の都合で、基本的に自由時間は殆どない。
彼女の卒業式の日は、偶然の重なった異例の状況だったのだ。
あんな風に毎回会えるわけではない。
結局、会える目処は全く立たないまま、こうして毎週彼女からの返信を待つことしか出来なかった。
そしてそのメールに一喜一憂するのだ。

練習しよう、と保科は思った。
不器用で気の利かない保科が唯一、彼女を喜ばせる方法だ。
また、凄いと思って貰いたい。
最高だと言われたい。
彼女に、自分のサッカーを見てほしい。

今日の練習メニューは全て終わっているが、保科はボールを持って外に出た。
まさかこんな想いを原動力にする日が来るとは、過去の自分が知ったら大層驚くだろうと保科は思う。
それでも、保科は自分に正直だった。



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