[31]彼女
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「保科さんは、普段は大阪にいるんですよね?」
「はい」

彼女は自分の所属チームを知ってくれているのかと、保科は嬉しくなる。

「連絡先、聞いておいてもいいですか?」
「はい、それは勿論」

どのタイミングで聞けばいいのか図りかねていた保科は、彼女からそう言い出されて安堵した。
それぞれポケットからスマートフォンを取り出して、連絡先を交換し合う。
手が触れそうなほどの距離感に、保科はまた心臓を高鳴らせた。
本題は終わったはずなのに、緊張感は和らぐ気配がない。
だがそれはもう、痛みを伴うものではなくなっていた。
胸の底を柔らかな火で暖められるような、熱いのに離れがたいような、そんな感覚だ。
好きな人と言葉を交わすとは、こういうことなのだろう。
過去、彼女との会話はいつでもサッカーの話題だった。
サッカー用語やら選手の名前やらが飛び交う、極めて専門的な会話で、そこに互いの感情など差し挟む余地がなかったから、気付かなかったのだ。
こうしてサッカーに全く関係のない会話を初めてしてみて、保科は実感する。
好きな人と会話をするというのは、こんなにも心踊るものなのだと。

「……たまに、連絡しても構いませんか」
「え?」
「その、あくまで友人として、」

きょとんと保科を見上げた彼女が、一拍置いてふわりと笑った。
勿論、と返され、保科は嬉しくなる。

「あと、一つ伺いたいのですが、」
「なんですか?」
「卒業後の進路は、決まっていますか?」

ようやく、連絡先は手に入れた。
だが保科はまだ彼女のことをあまりにも知らなさすぎる。
目下、最も気になっているのは、四月からの彼女がどのような生活を送るのかということだった。

「都内の大学に行くつもりです」
「進学ですか。では、これから受験を?」
「いえ、指定校の合格をもう貰ってます」

なるほど、と保科は頷く。
やはり彼女は、勉強も卒なくこなすらしい。

「何か、学びたいことがあるのですか?」

彼女のことだから、惰性で学生を続けようというつもりではないのだろう。
そう考えて聞けば、彼女は不自然に口を噤んだ。

「すみません、不躾でしたか」
「え?ああ、違います違います。ただ、ちょっと気恥ずかしいんですよ」
「気恥ずかしい、とは?」

人に説明しにくいようなことだろうか。
疑問符を浮かべた保科に対し、彼女はその言葉通り少し照れ臭そうに話してくれた。

「……ちょっと、夢を追いかけてみようかと思ってて」
「夢、ですか」
「私、子どもの頃、小説家になりたかったんですよ。書いては応募して、書いては応募して。でも、全然駄目で、一度諦めちゃったんです」

昔を懐かしむように、彼女が目を細めて宙を眺める。

「人間、ほどほどに諦めた方が人生上手くいくんだなーなんて、思ってたんですけど。でも、そうじゃない人たちが、ちゃんといた」

彼女の言わんとしていることが、保科にはすぐに分かった。
彼らのことだ。

「上手な生き方をする上で選ばない方の選択肢をもし選んだら、どうなるのかなって。気になっちゃって。こういうこと、みんなには絶対に言いたくないんですけどね」

彼女の瞳が、柔らかく揺れた。

「みんなみたいに、私も、諦めずに生きられたらいいなあって。三年間で、感化されちゃったみたいです」

特別にサッカーが好きなわけではない彼女がなぜサッカー部のマネージャーを務めていたのか、その理由がようやく分かる。
彼女は、諦めることなく走り続ける彼らの背に、自らが過去に捨てたはずの理想を見たのだ。

「だから、もう一度夢を追いかけてみることにしました」

そう言って、彼女ははにかんだように笑った。
その笑顔があまりにも可愛らしくて、見惚れた保科は言葉を失くす。
それをどう勘違いしたのか、彼女が慌てた様子で「あ、でも、」と付け加えた。

「流石にもう、夢だけ追いかけていられる年齢じゃないのは分かってるので、とりあえず大学で文学を一から勉強しつつ、書けるだけ書いて、あとは知り合いに紹介して貰った出版社の編集部でバイトしながら、って感じになると思いますけど」

決して、彼女が賢そうだから好きになったわけではない。
だがこうして自らの人生についてきちんと考えている姿を見せられると、素直に尊敬の念が湧いた。

「応援、しています」

もう少し気の利いたことは言えなかったのかと、自分でも情けなく思う。
だがそんなありふれた言葉でも、彼女は微笑んでくれた。

「はい、頑張ります」

話の区切り、お互いに次の言葉を見つけられず黙り込む。
彼女が手に持ったままのスマートフォンに一瞬だけ視線を落としたのが分かった。
時間を確認したのだろうか。
長く引き留めすぎたかもしれないと、保科は申し訳なく思った。
でも自ら立ち去るにはこの時間が宝物のようで、しかし何と言っていいのかも分からず、保科は沈黙を続ける。
彼女はスマートフォンをポケットに戻し、所在なさげに視線を彷徨わせた。
そんな一挙手一投足、視線の動き一つさえ、彼女が相手だと気になってしまう。
もうチームメイトのもとに戻ってしまうのか、それともまだ一緒にいてくれるのか。
彼女の言動どころか、その内心を勝手に推し量って振り回される。
そんな感覚も保科にとっては初めてで、戸惑うばかりだった。

「……私も、応援してますね」
「え?」
「試合。こないだもテレビで観ました、天皇杯。流石に決勝は観れなかったんですけど、優勝したんですよね。おめでとうございます」

ああ、と保科は思わず声を上げそうになる。
彼女にとって重要なのはあくまで聖蹟のサッカーであって、サッカーそのものに対する関心は薄いと思っていた。
だがそれでも参考までに、あるいはなんとなくの時間潰しでもいいから、テレビに映る試合を観てはくれないだろうかと。
そんな風に考えていた。
テレビで放送される試合に出れば、彼女が観てくれるかもしれないと期待して、でもそう都合良くもいかないだろうと、期待しすぎないよう自らに言い聞かせて。
そんな日々だったのに、当の本人が知らぬところで、彼女は保科を見てくれていたのだ。
別にそれが目当てではなかっただろうが、試合を観て、保科の存在に気付いてくれていた。
自分たちのことで何よりも忙しいこの時期に、わざわざ試合結果を確認するほど関心を寄せてくれていた。
彼女のためにサッカーをしているわけではないが、それでも彼女の言葉を聞いて、何かが報われた気がするのだ。

「……ありがとうございます。観て下さったんですね」
「準々決勝のフリーキック、凄かったです。素人にそんなこと言われても、って感じかもしれないですけど」
「いえ、いいえ、とんでもない」

確かに、プレー出来ないという意味では、彼女は素人だろう。
だが人一倍サッカーについて研究し、分析し、高校サッカーの頂点を獲るようなチームの戦術を担当したのだ。
素人目線とは全く思わない。
それに、保科にとっては素人か否かなんて正直関係なかった。
彼女が、そう言って保科のプレーを褒めてくれる。
それだけで、どんな言葉よりも価値があった。

「ありがとうございます。あなたにそう言って貰えることが、一番嬉しい」

何よりも励みになる。
来シーズンも、保科は引き続きJ1でプレーするのだ。
オンエアされる試合は多い。
その度に、彼女は観てくれているだろうかと、今まで以上に期待することになるのだろう。
そんな確信と共に、保科はそっと笑った。

その時、彼女のポケットの中でスマートフォンが鳴る。
すみませんと断って、彼女はそれを取り出し耳元に寄せた。

「はい、ミョウジです。ーー はい、分かりました。ーーー いえ、大丈夫です。すぐに行きます」

恐らくは監督か、もしくは部員からの連絡だろう。
通話を切った彼女は保科を見上げ、申し訳なさそうに苦笑した。

「すみません、もう行かないと」

分かっていた。
ずっとこうしていられるなんて、非現実的にも程がある。
それでもいざそう言われると、胸が苦しくなった。

「はい。寒い中、長く引き留めてすみませんでした」

次はいつ会えるだろう。
想いは伝えた。
連絡先も交換出来た。
今朝の時点では想像もしていなかったほど、互いの関係性は前進しただろう。
恐らく、友人と呼んで差し支えない程度にはなれたはずだ。
それでも、確かなことを何一つ持っていない状況であることは、変わっていない。

「今日東京に戻ると聞きました。道中、お気を付けて」
「ありがとうございます。保科さんも」

離れがたい。
だが、これ以上は引き留められない。
彼女に迷惑はかけられないし、しつこいと嫌われるのは耐えがたい。

「じゃあ、また、」

彼女はそう言って小さく会釈し、保科に背を向けた。
また。
もしかしたら反射的に、半ば癖のように出た言葉かもしれない。
でも、それに縋りたいと思うのだ。
彼女はまた自分に会ってくれる、そのつもりがあるのだと、信じるしかない。
一歩、二歩、三歩。
段々と歩調を速めながら、彼女の姿が遠ざかる。
保科は黙ってその背を見送った。
先ほどまで全く感じていなかった寒さが、突然身に染みる。
別れとはこんなに寂しいものなのか。
こんなにも、ずっと一緒にいたいと思うものなのか。
基本的に一人でいることを苦痛としない保科がこんな気持ちで人を見送るのは、初めてだった。

ミョウジさん。

保科が胸の内で彼女の名を呟いた、その時。
まるでその声が届いたかのように、彼女が振り返った。
驚き固まる保科の視線の先、少し離れた位置に立ったまま、彼女が少し声を張る。

「元気、出ました!」

その距離、およそ六、七メートル。
先程、濡れたタオルを目元に当てて俯く彼女を保科が見ていた時のような距離感で、だがその際とは比べものにならないほどの明るい表情で、彼女は笑った。

「嬉しかったです!ありがとうございました!」

言葉通りの感情を浮かべたような笑みを、保科に向ける。
ああ、かわいい、と。
保科は唐突に思った。
とくんと心臓が跳ね、胸臆があたたかくなる。
全く何の反応も返せなかった保科を気にした素振りもなく、彼女はそう言い残して再びくるりと踵を返した。
そして、駆け出して行く。
髪を靡かせ、軽やかに走り去る彼女の小さな後ろ姿が、保科の目に強く焼き付いた。



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