この哀しい罪を抱いて[2]
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秋山にとっての、張り詰めた沈黙は約五秒。

「ここにいますよ」

それを切り裂く淡々とした声は、秋山の背後から聞こえた。
反射的に振り返った先、今の今までどこに行っていたのか、唐突に現れたナマエの姿がある。
言葉を失くした秋山のすぐ側を、ナマエがブーツの音と共に通り過ぎた。
ナマエが車両のステップを上り、宗像の真正面に立つ。
その段になって初めて、宗像が顔を上げた。
秋山は、そんな二人の横顔を外から黙って見守ることしか出来ない。

「一つ、君にしか頼めないことがあります」

宗像の声音は、やはりどこか不安定だった。
宗像が見上げ、ナマエが見下ろす。
二人の視線が交じり、恐らくそこに、二人だけが分かるやり取りがあった。
やがてナマエが流れるような所作で、宗像の眼前に跪く。

「何なりと」

それは、王に傅く臣下の姿そのものだった。
命令を待つナマエは、宗像の足先に視線を落としたまま何も言わない。
そんなナマエを見下ろした宗像はしばらく黙り込んだ後、唐突に右手を伸ばすとナマエの二の腕を掴み、そして強引に自らへと引き寄せた。
ナマエの身体が前方に倒れ込み、そして宗像の胸元に受け止められる。
その瞬間秋山は、己の心臓が握り潰される音を聞いた気がした。
真っ赤になった視界の中、宗像がナマエの背に両腕を回してきつく抱き締める。
ナマエは一切の抵抗も示すことなく、宗像の脚の間に囲まれ、素肌の胸元に顔を押し付けられても何も言わなかった。
今、目の前で、秋山の恋人は他の男に抱かれている。
そして秋山は、そこに好意があることを知っている。
それなのに、秋山の足はまるで根が生えたかのように地面に縫い止められ、一歩たりとも前に進んではくれなかった。
内臓を他人の手で掻き回されるような不快感に、吐き気が込み上げる。
頭痛と眩暈が酷かった。

そのひとに、触れるな。

臣下としてではなく一人の男として、宗像に対する憎悪が腹の底から湧き上がる。
嫉妬、などという生易しい感情ではなかった。
自らの聖域を侵されたかのような感覚は、本能的に、その侵略者を排除せんと身体を震わせる。
大袈裟でも何でもなく、宗像は今、秋山の唯一無二である宝物を奪い取ったのだ。
激しい瞋恚と焦燥に身を焼く秋山は、周囲の状況など全く目に入っていなかった。
視界には、密着する宗像とナマエの姿だけが映っている。
果たして何秒の時間が流れたのだろうか。
秋山が我に返ったのは、右手首を誰かに強く掴まれる感覚を覚えたからだった。
はっと見下ろせば、自らの右手首に誰かの指が巻き付いている。

「駄目だ、秋山」

隣から静かに掛けられた声に、それが弁財の手であることを理解した。
顔を上げれば、弁財が険しい表情で秋山を見据えている。
その視線が下に流れ、秋山はつられてもう一度自らの手に目を向けた。
そこでようやく秋山は、己の右手が左腰に伸びていたことを知る。
秋山の右手は、あと少し動かすだけでサーベルの柄を掴める位置にあった。
瞬間的に、まるで大量の氷水を胃に流し込まれたかのような錯覚。
秋山は息を飲み、そして呆然となった。
視界を染めていた禍々しい赤が消え去り、再び元の闇夜が降りてくる。
どこか現実味を失くした世界の中心で、宗像が首を曲げ、ナマエの耳元に何事かを囁いた。
秋山の聴覚に、その音は届かない。
ナマエがどのような反応を示したのか、秋山の位置からでは分からなかった。
しかし次の瞬間、宗像の腕から抜け出し立ち上がったナマエの発した台詞こそが、明確な返答だろう。

「仰せのままに」

仰々しい言い回しで以て何らかの命令を承服したナマエが、宗像に手を差し出した。
苦笑した宗像がその手を取って立ち上がる。
ナマエは宗像の背後に回ると肩から落ちかけた上着を掛け直し、歩き出した宗像に付き従うようにその背を追った。

「君たちは淡島君と共に現場の後始末をお願いします。終わり次第屯所に帰投して構いません」

救護車両を降りた宗像から、特務隊に指示が飛ぶ。
急にいつもの調子を取り戻した声遣に戸惑いながらも隊員たちが諾と返せば、宗像は一つ頷いてから再び歩き出した。
その三歩後ろを、ナマエが当然のごとく追随する。
皆の視線がナマエに集まった。
秋山もまた、じっとナマエを見つめる。
ナマエはそれらを全て感じ取った上で、何も言わないという道を選んだようだった。
いつもと何ら変わりのない表情で、躊躇なく歩を進める。
途中で一度、秋山とナマエの視線が絡み合った。
ナマエの双眸が、秋山の姿を捉える。
聞きたいことは山ほどあった。
今まで何をしていたのか、宗像に抱き寄せられた時にどうして抵抗しなかったのか、宗像に何を言われたのか、今から何をしようとしているのか。
だが、本当に問いたいことはただ一つだけだった。

貴女は今も、俺のことを想ってくれていますか。

結局、中途半端に開いた秋山の唇から音が零れることはなかった。
あっさりと秋山から視線を逸らしたナマエは、そのまま宗像に続いて秋山の隣をすり抜ける。
静かに歩き去り、宗像と共に深夜の暗闇に消えた後ろ姿を、秋山はずっと見つめていた。


「秋山、」

やがて二人の姿が完全に見えなくなった頃、弁財に呼ばれて秋山は振り向く。
その時になってようやく、全員の視線が自分に集まっていることに気付いた。

「………手、消毒しておけよ」

弁財に指差され、ふと見下ろせば固く拳の握り締められた己の両手。
意識して指から力を抜けば、爪の食い込んだ掌から血が滲み出ていた。

「……秋山さん……、その……」

日高が、おずおずと躊躇いがちに声を掛けてくる。
その両眉を垂れ下げた情けない顔に、己のそれはもっと酷いことになっているのだろうと秋山は自嘲した。

「大丈夫だ」

同僚たちに、そして自らに言い聞かせるべく、秋山は思ってもないことを口にする。
そうしなければ、今すぐにみっともなく地面に崩れ落ちてしまいそうだった。

「大丈夫だ、何ともない」

それでもなお気遣わしげに見つめてくる仲間たちに無理矢理作った笑みを見せ、秋山は声を張る。
今この非常時に、秋山が揺らぐわけにはいかなかった。

「室長のご指示に従おう。副長はまだ御柱タワーだ、俺たちも行くぞ」

そう告げて、誰よりも早く踵を返す。
貼り付けた笑みが崩れる瞬間など、晒せるはずもなかった。

胸懐に渦巻く感情は、果たして何という名のものだろうか。
嫉心、嫌悪、憤慨、失望。
焦燥、恋慕、寂寞、切望。
その全てであり、そのどれとも異なるような、複雑な想い。
秋山はずっと前から、それこそ付き合い始めた頃から、宗像がナマエに好意を抱いていることを知っていた。
己が宗像に到底敵わないことも、宗像がその気になれば容易に秋山からナマエを奪えることも、知っていた。
秋山はいつも、それを恐れていた。
ナマエに愛されていることを理解していても、それが永続する保証などないと弁えているからこそ、いつか訪れるその時にずっと怯えていた。
そのいつかが、今日なのだろうか。
宗像がナマエに何を命じたのか、秋山は知らない。
だが、その命令に従ってナマエが宗像に手を差し伸べたのは事実だった。
普通、部下が上官の手を取って立たせるなんてことはあり得ない。
まして、あのナマエがわざわざ上着を掛け直してあげるなどという甲斐甲斐しいことを率先してやるとも思えない。
つまりあれらの行為は全て、宗像の命令に従った結果だろう。
そこまで理解した上で、宗像がナマエに何を命じたのか分からないと言うのは、最早現実逃避ではないだろうか。
そう、秋山は気付いている。
宗像は恐らく、最後のカードを切ったのだ。
命令という、最強の切り札を。

しかし秋山の知る限り、ナマエは権力に対して従順な人間ではなかった。
これは本人の口から直接聞いた言葉だが、上官の命令は絶対だと盲信することもない。
つまりナマエは、理不尽であったり不必要だと思えるような命令に対しては上手く逃げ道を作ったりその是非を確かめたりする人なのだ。
上官が全ての烏は白いと言ったから、という理由で黒を白と思い込む馬鹿でもなければ、黒を白に染めるような忠犬でもない。
ならば、そのナマエが二つ返事で了承したということに、意味を見出してしまうのも無理からぬことだろう。
ナマエは反論しなかった。
理由も問わなかったし、躊躇も見せなかった。
ナマエは宗像の命令に、自ら進んで従ったのだ。

どうして、と。
胸憶で糾弾するのは、いけないことだろうか。

ナマエは、秋山の恋人だ。
たとえ秋山が俺のものだと言い切ることは出来ずとも、互いに愛を交わした間柄のはずだ。
何年も何年も、秋山はナマエを恋い慕ってきた。
共に過ごすようになってから、喧嘩もしたし互いに傷つけ合ったこともある。
それでも、つらいこと、哀しいことを共有し、手を取り合って乗り越え、今日まで一緒に生きてきた。
たくさん泣いて、でもそれ以上にたくさんの幸せを貰って、愛し愛された。
最期まで一緒にいてほしいと願った、唯一無二の愛しい人。
それなのに、宗像の命令ひとつでこんなに呆気なく、その関係は壊されてしまうのだろうか。

分かっているくせに。

秋山は、聳え立つタワーを眺めて自嘲した。
自問の答えは、肯定以外にあり得ない。
かつて秋山がまだナマエと宗像の仲を疑っていた頃、ナマエに訊ねたことがあった。
秋山と宗像を比べた時、ナマエはどちらを選ぶのかと。
その時ナマエが何と返したのか、秋山は今でも鮮明に憶えている。
従うのは室長、と、ナマエは即答したのだ。
ミョウジナマエ個人として、ナマエは恋人に秋山を選んでくれた。
だが青のクランズマンとしてのナマエは、それよりもずっと前から宗像だけを選び続けている。
宗像が納得のいく理由で以て秋山との交際を禁じるならば別れるつもりだと、ナマエ自身が明言しているのだ。
公私を完璧に区別した上で私よりも公を優先するナマエに対し、秋山がいくら縋り付いたとてその意思が覆らないことは明らかだった。



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