その花はどんな色だろうか[2]
bookmark


お互いに忙し過ぎてここしばらく買い物に行く暇などなかったため、冷凍庫に残っていたうどんを茹でてだし汁を掛けるくらいしか出来なかったが、何も食べないよりは幾分かましだろう。
二人分のかけうどんを丼に入れて部屋に戻ると、ナマエは先刻までと全く同じ体勢から微動だにしていなかった。

「ナマエさん?起きてますか?」

テーブルに器と箸を置き、ナマエの肩に触れる。
んん、とくぐもった唸り声に、秋山は苦笑した。

「ごはん、食べましょう?少しでも胃に入れておかないと、保ちませんよ」

秋山としても、このまま寝かせてあげたいのは山々だ。
しかしいつサイレンが鳴るか分からない以上、体力を補っておいてもらいたかった。
現場で何かあってからでは遅いのだ。
それを恐らく秋山以上に理解しているナマエが、ベッドに手を付いて緩慢に顔を上げる。
秋山はナマエが起き上がるのを手伝い、ラグの上に誘導した。

「熱いから気を付けて下さいね」

秋山から箸を受け取ったナマエが、幼子のようにうんと頷いてから、徐にうどんを啜り始める。
きちんと食べられていることを確認してから、秋山も己の分に箸をつけた。
味としては可もなく不可もなしなのだろうが、空っぽの胃に温かい食事が沁み渡れば身体は満足する。
黙々と食べ続けるナマエも、恐らくは同様だろう。
互いに薄味の汁まで飲み干して、簡素な食事を終えた。

「ごちそうさま」
「お粗末様でした」

少し目が覚めたのか、ナマエの口調が幾分か明瞭になっている。
はふ、と息を吐き出してベッドに凭れたナマエに、秋山は柔らかく笑い掛けた。

「カフェオレよりお茶にしておきますか?」
「……うん、そうする」
「ちょっと待ってて下さいね」

器を重ねて持ち、秋山はもう一度キッチンに移動する。
茶といっても立派な茶葉があるわけではなく、パックの緑茶なのだが、ナマエも秋山もそのチープな味を気に入っていた。
部屋で気儘に飲む茶など、このくらいでいいのだ。

「お待たせしました」

二つ用意したマグカップのうちの片方をナマエに手渡してから、秋山はその隣に腰を下ろした。
肩が触れ合う距離に、ほっと心が休まる。
ナマエと同様にベッドを背凭れにして、緑茶を啜った。

「ごめん、何から何まで」
「何を言ってるんですか、俺なら大丈夫ですよ」

体力については、柔な鍛え方などしていない。
何よりも、ナマエがこうして頼ってくれるのだ。
たとえ自分では指先の一本すら動かせないと思う程に疲弊したとしても、ナマエがいるだけで何だって出来る自信があった。
ありがと、と呟いたナマエの声音が穏やかで、秋山は嬉しくなる。
こうして無防備な姿を見せてくれることが増えたのは、いつの頃からだっただろうか。
先々月の誕生日に貰った手紙で、ナマエは自身が秋山に甘えていると自覚していることを打ち明けてくれた。
秋山はそれまであまり実感していなかったのだが、言われてみれば確かに、こうした瞬間にナマエが見せてくれる姿は彼女なりの甘えそのものなのかもしれない。
共にいることで安心したり、肩の力が抜けたり。
ナマエにとってのそんな相手になれているのであれば、それは秋山にとってとても幸せなことだった。
誰にも弱ったところを見せようとしない、例え群れの中にいても一人で立って全てを賄ってしまえる、そんな人だから。

「……ナマエさん?」
「んーー……?」

だから今この瞬間のように、ナマエが秋山の肩に頭を預けて寄り掛かってくれるのであれば、それだけでもう秋山は自身がナマエの特別であることを実感出来るのだ。

「もうすぐ、今度はナマエさんの誕生日ですね」
「……もうすぐって、まだ大分先だよ?」
「もう来月ですよ、すぐですって」
「まあ、この忙しさじゃあっという間か」

ナマエの誕生日まで、後二ヶ月弱。
勿論ナマエの言う通り、日々が飛ぶような忙しなさで過ぎて行けばあっという間かもしれないが、そういう意味で言っているのではなかった。
楽しみで、大切なイベントだからこそ、そのための準備期間としては短すぎるのだ。

「ナマエさんは、何か欲しい物がありますか?」

ナマエが秋山にくれた問いを、今度は逆に投げ掛けてみた。
案の定、答えに窮したナマエが困ったように沈黙する。
元々物欲があまりない人なのに、それに加えて現状の碌に脳が活動していない状態で、咄嗟に欲しい物が出て来るとは当然思っていなかった。
恐らく今、ナマエの脳裏に浮かんだ唯一の答えは"特に何もない"だろう。
でも、そう返すと秋山が落ち込むかもしれないと危惧して、ナマエは別の答えを探してくれているのだ。
優しくて可愛い、大切な恋人。
秋山は穏やかな心地で柔らかな静寂に浸った。


「……あれ?ナマエさん?」

不意に、重みを増した肩。
身体を動かさないように首を捻ってそっとナマエの顔を覗き込めば、ナマエは秋山の肩に寄り掛かったまま眠っていた。
それを知った瞬間の感情を、どう表現すればいいのだろうか。
胸臆に歓喜という名の水風船が投げ込まれ、それは感動に打ち震える鼓動によって破裂し、中から幸福という名の水が溢れて秋山の全身に余すところなく沁み渡っていく。
あの、気配に敏感なナマエが。
秋山が視線を向けるだけで煩いと目を覚ましていた頃もあったナマエが。
秋山の肩に頭を預け、無防備に、あどけなく、安心しきった表情で眠ってくれている。
それはナマエから与えられる最大級の信頼に他ならないのではないだろうか。
秋山はゆっくりと息を吐き出し、左肩に全神経を集中させてナマエの体温と感触に浸った。
愛おしい、嬉しい、幸せだと、馬鹿になった脳はそればかりを何度も繰り返す。
耳元で僅かに聞こえる寝息のタイミングに自らの呼吸を合わせてみたりして、そんな一方通行ような二人遊びに秋山は喉の奥で小さく笑った。
そうでもしないと、与えられる温もりに泣いてしまいそうだったのだ。

最近になって、少し分かってきたことがある。
秋山の知る限りナマエは元々、人に頼ったり甘えたりすることを必要としない人だ。
それは決して、何でも一人でこなし常に一人で行動する一匹狼という意味ではない。
人心を掌握し、人を使って物事を動かすことに長けたナマエは、常に人の近くに立っていた。
だがそれは目に映る行動に限った話であって、精神的な面で言えばナマエは誰に対しても依存や執着を見せなかった。
言ってしまえば、ナマエにとって側にいる人間は誰でも良く、いなければいないで構わない、そんなスタンスだったのだろう。
そんなナマエの他人に対する要求のなさは、無理をしているわけでもなければ一人で立とうと強がっているわけでもなく、単なる自然体だ。
だが、秋山は考える。
もしかすると本人すら自覚していないだけで、心のうちには信頼の置ける相手に甘えたい欲求があるのではないか、と。
複雑な家庭環境に育ち満足に甘えられなかった幼少期、それを助長させた国防軍時代。
生きてきた環境が、ナマエから甘えるという概念を奪い取ってしまったように思えるのだ。
独り善がりだ、都合の良い妄想だと言われればそれまでだ。
それでも秋山には、今こうして隣で眠るナマエの時折見せてくれる無防備な姿が、ナマエの無意識下における甘えのようだと感じられた。
ナマエはもしかしたらそれを、弱さと評するのかもしれない。
もしそうであるならば、どうかもっと、弱くなってほしかった。
一人でこの世界を生きていけるはずだったナマエが、秋山に出会ったことで、秋山なしでは生きていられなくなるまで、とことん弱くなってほしい。
だから秋山は、強引にでもナマエを徹底的に甘やかすのだ。
身の回りの世話を焼いて、尽くして、奉じて、本来ナマエが苦もなく一人で出来てしまうことを、気付かれないように少しずつ奪っていく。
そうやって秋山はナマエの中に、ナマエにとっての秋山氷杜という男の存在理由を根付かせる。
今はまだ小さな芽でも、そっと静かに、けれど欠かすことなく水を注ぐのだ。

いつかそれが花開いてナマエの視界に映り、大切に愛でられる日を夢見て。





その花はどんな色だろうか
- たとえ真っ黒でも、それはきっと幸せの色 -





prev|next

[Back]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -