思惟を埋め尽くす[3]
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秋山が自身の浮かれ具合を正確に把握したのは、コンビニに着いて腕時計を確認した時だった。
十時十五分、つまり待ち合わせの十五分前である。
何もこんなに早く来る必要はなかっただろう。
秋山はガラス張りの店内に入るかどうか一瞬迷い、結局外で待つことにした。

言うまでもなく、緊張していた。
種類が異なるため比較対象としては不適切だが、度合いだけを比べるならば室長執務室の扉をノックする時以上の緊張感だった。
心臓の音が煩い。
確かにこれまでも、ナマエとの交際に緊張は付き物だった。
初めて部屋を訪ねた時、メールを送る時、手料理を振る舞う時、喧嘩の後に話し掛ける時。
しかしそれらの場合、根本にあるのは拒絶に対する恐怖だった。
今は違う。
胸骨を叩く鼓動が表しているのは、紛れもなく期待だった。
ナマエはどんな格好で来るのだろうか。
この後どこに行くのだろうか。
どんな表情を見せてくれるのだろうか。
楽しみで、待ち遠しくて、堪らない。
初めて女子とデートをする少年のような気分で、秋山はナマエの到着を待った。
長すぎる十五分だった。

そして、その時は訪れた。

視線の先、ちらほらと行き交う人々の中に、コンビニを目指して歩いて来る姿を見つける。
最初、秋山にはそれがナマエだと分からなかった。
やがて距離が縮まり、その女性がナマエであると認識するや否や、秋山はぽかんと口を開けた。
そのくらい、予想外の格好だったのだ。
いつものメンズライクな服装ではない。
膝上約十センチ、半袖の黒いワンピース。
オーバルネックの首元はシンプルだが上質なネックレスで飾られ、普段ストレートな髪は緩やかにカールしている。
肌の色が透けるほど薄い黒のストッキングに、ヒールのあるパンプス。
肘を曲げた腕にトップハンドルバッグを掛け、その手首には秋山の贈った腕時計が巻かれていた。

「お待たせ」

確かに、服も靴も鞄も全て黒で統一されている。
その点ではいつも通りと言えるだろう。
だが、スカートとそこから覗く脚のラインはあまりに新鮮かつ魅力的で、秋山は迫り上がる興奮に身悶えそうだった。
ナマエのパンツスタイルではない姿を見るのは、宗像とパーティに参加した時以来、二度目のことである。
部屋でオーバーサイズのシャツの裾やショートパンツから覗く脚は時折目にするが、こうして外で見ると、それとはまた異なる雰囲気に感じた。

「……どう、したんですか……、それ……」

口にしてから、不適切な第一声だったと後悔する。
しかしナマエにとっては予想通りの反応だったのか、気分を害した様子はなく、むしろ口元に弧を描いた。

「まあ、たまにはこういうのもいいかなあ、と」

ナマエがワンピースを所持している、ということすら知らなかった秋山は、ただただ驚くばかりである。
きゅっと引き締まった足首、綺麗としか言いようのない脚のライン、太腿を途中から覆い隠すワンピース。
身体のラインに沿ったデザインのため、ウエストの括れが見事に強調されている。
晒された眩しいほどの白い腕と、首元。
ふわりと緩やかに巻かれた髪に、いつもよりしっかりと施されたメイク。
しかし決してけばけばしさはなく、絶妙なバランスを保っていた。

「一応聞いてみるけど、ご感想は?」

はっきり言おう。
今すぐに連れ帰って、誰の目にも触れさせないようにしたいほど魅惑的だ。
だが同時に、この人の隣に並んで歩けるのかと思うと、堪らなく幸せだった。

「……すごく、きれいで、おれ、ちょっとどうにかなりそうです」

酷く辿々しいコメントに、ナマエが苦笑する。

「行こっか」

そう言って、ナマエが秋山の左手を取った。
まるで当然とばかりに繋がれた手に、秋山は瞠目する。
急に手汗が噴き出たように感じ、気が気でなかった。

駅に向かって歩き出す。
すぐに理解したのは、ナマエの歩幅がいつもより小さいということだった。
スカートにピンヒールとなれば、自然と小股になるものなのだろう。
秋山はナマエに歩調を合わせ、普段よりもゆっくりと歩いた。
駅に近付くにつれ、人通りが多くなってくる。
秋山は、擦れ違う男が十中八九ナマエを振り返って二度見することに気付いていた。
これがもしいつもの距離感であれば、秋山は独占欲に苛まれただろう。
だが、繋いだ手を引き寄せた腕と腕が触れるほど近い距離のおかげで、秋山の胸を占めるのは圧倒的な優越感だった。
普段のナマエに魅力がないという意味ではない。
パンツスタイルのメンズライクな格好でもナマエは充分に美しく、その隣を歩けることが誇らしかった。
しかし今日のあまりに分かりやすい女性らしさは、誰もが一瞬で目を奪われる。
男を次々と虜にしていくその魅力は、いっそ恐ろしくもあった。
公共の場で露骨なスキンシップを図る趣味などない秋山が、今この瞬間に抱き寄せてキスをしたい衝動を必死で堪えなければならないほどに蠱惑的で、思考の片隅が熱に侵される。
揺れる髪からいつもより甘い匂いが漂ってきて、秋山は眩暈がしそうだった。

「とりあえず、清宿でいい?」

タンマツを翳して通り抜けた自動改札の先、ナマエが秋山に視線を向ける。
身長差がヒールで縮まり、常よりも近い位置にある顔に秋山はどぎまぎした。
唇に乗った紅に視線を奪われる。

「だ、いじょうぶです、どこでも、」

片言の返事に、ナマエが笑った。
本当に恥ずかしい。
多分今、物凄く情けない顔をしているのだろう。
そう理解していても、秋山には対処の仕様がなかった。
身体が内側から発火するように熱く、繋がれたナマエの手が冷たくて気持ち良い。
普段ならば適当な言葉を見つけられるのに、今ばかりは何を話せばいいのか皆目見当もつかなかった。
無言で焦る秋山の隣で、ナマエがさり気なく身体を寄せてくる。

「ちょっと緊張しすぎじゃない?」

殆ど耳元で囁かれ、秋山は悲鳴を上げかけた。
心臓が保たない。
そろそろ爆発する気がする。
そんな非現実的な思考を辿りながら、秋山は何とか言葉を手繰り寄せた。

「だって、そんな格好……」
「そんなに違うもん?」
「全然違いますよっ。ワンピースなんて、持ってることも知らなかったです」
「まあ、普段は着ないからねえ」

ナマエが自分の身体を見下ろす。
釣られて視線を下げれば脚のラインが目に飛び込んできて、秋山は慌てて顔を上げた。

「まあ、何かあったら今日はよろしく」
「……はい、ナマエさん」

ナマエの普段のパンツスタイルは、勿論本人の好みもあるのだろうが、理由の根本は私服の時でも事件に対応出来るようにという意識だ。
だから、動きやすいパンツとヒールのない靴、そして手を塞がない鞄を選んでいる。
しかし今日、その全てが当て嵌っていなかった。
ワンピースに、ヒールのパンプスに、ハンドバッグ。
勿論だからといって咄嗟に動けないということではないだろうが、いつもより制限されることは間違いない。
その格好で出歩こうとしてくれたことは即ち、秋山に対する信頼の大きさを物語っていた。


ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
異なる空間に脚を踏み入れる際、咄嗟に周囲を確認してしまうのは、恐らく秋山もナマエも職業病だろう。

「座りますか?」

ヒールがある分疲れやすいのではないかと足下を気遣うと、ナマエは座席に充分な余裕があることを確かめてから頷いた。
ナマエを端に誘導し、その隣に腰を下ろす。
組んだ脚の上にバッグを置いたナマエを見ながら、秋山は高鳴る鼓動がようやく少しずつ収まりかけていることに安堵した。





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