Miss you Sweetheart [3]翌日、十二時十五分。
秋山が情報処理室でパソコンに向き合っていると、背後で扉が開きナマエが室内に入って来た。
青い制服姿ではなく、相変わらず上から下まで真っ黒の私服姿である。
「お疲れ様です、副長」
ナマエの声に反応し、奥で書類を捲っていた淡島が立ち上がった。
同じく室内にいた伏見と弁財も顔を上げる。
「今から行くのね?」
「ええ、そろそろ」
「そう。悪いわね、二週間も」
「いえいえ、バカンスだと思って楽しんできますよ」
申し訳なさそうな顔をする淡島に軽口を返したナマエが、ざっと室内を見渡した。
「少ないですね。忙しいんですか?」
「いいえ、その逆よ。皆、休憩や自主稽古で出払っているだけ。この調子で二週間平和だといいんだけど」
「そんなこと言ってると忙しくなりますよ」
そうね、と淡島が苦笑する。
秋山は作業の手を止め、立ち話をするナマエをじっと見つめた。
見納め、という表現は不適切だろうが、しかし心情としては間違っていない。
二週間分、目に焼き付けておきたかった。
「でも、暇なら丁度良かった。電車のダイヤが少し乱れてて、荷物もあるし、一人足に使ってもいいですか?」
「勿論、構わないわ」
淡島が頷くと、ナマエは助かりますと目を細めて再び室内に視線を巡らせる。
「車、回します」
それは反射だった。
秋山は咄嗟に立ち上がり、そう進言していた。
秋山とナマエの視線が絡み合う。
一拍置いて、ナマエが口元を緩めた。
「ありがと。じゃあ、正門前で」
ひらりと手を振って、ナマエが扉に向かう。
「頼むわね」
「お気を付けて」
その背に、淡島と弁財が声を掛けた。
秋山は急いでパソコンをシャットダウンさせ、デスクに広げていた書類を纏める。
弁財の苦笑に見送られ、ナマエの背を追うように情報室を後にした。
五分後、秋山はナマエの指示通り屯所の正門前に車を停めた。
運転席から降りて待っていると、しばらくして隊員寮の方向からナマエの姿が近付いて来る。
秋山はナマエに駆け寄り、ボストンバッグを受け取ろうと手を差し出した。
「ああ、別にいいのに」
気遣いは無用、とばかりに苦笑するナマエの手から、半ば強引にバッグを奪う。
しかし、予想に反して荷物は軽かった。
「……そんなに、重くないんですね」
「だからいいって言ったんだって」
確かに、昨夜荷造りを目の前で見ていた秋山は、二週間の出張のわりに少ない量だとは思っていた。
「でも、さっき、」
ナマエが淡島に説明した理由は、荷物が重いから電車ではなく車を使いたい、という口振りだった。
「ものは言いようでしょ。嘘はついてないし。ダイヤの乱れも事実だよ」
「……それって……」
後部座席のドアを開けたところで、秋山は手を止める。
思い至った一つの可能性に、身体の奥が揺れた。
「もしかして、俺のためですか……?」
「足に使われといて俺のためとか言わないの」
否定も肯定も口にすることなく、ナマエはさっさと助手席のドアを開けて車に乗り込んでしまう。
しかし、緩んだ横顔が答えだった。
ナマエはわざと、この状況を作ってくれたのだ。
見送りが出来ないことを残念に思っていた秋山のために、最後まで一緒にいる時間を用意してくれた。
ナマエにしては珍しい、珍しすぎる公私混同。
秋山は込み上げる喜悦にむずむずと唇を緩め、バッグを後部座席に置くと急いで運転席側に回った。
椿門から空港まで、車で片道二十分。
秋山は常のように丁寧な運転を心掛けながらも、時折隣に座るナマエの様子を窺った。
くぁ、と零された欠伸に笑みが零れる。
ナマエとしてはかなり曖昧ではあるものの、一応互いに職務中である状況で、無防備な姿を見せてもらえることが嬉しかった。
「眠ってしまわれても構いませんよ?」
昨夜、正確には今日の未明まで、秋山は結局四度も致してしまった。
本当は一度で終わらせるつもりだったのだが、わざとなのか否か、誘い込むような仕草のナマエに煽られ、さらにこの先二週間会えないことを思えば止まれるはずもなく、秋山は限界までナマエを求めた。
結局、寝たのは二人揃って明け方に近かった。
「ん、へーき。どうせ飛行機の中で寝るし」
しかしナマエは、何でもないことのようにそう言って、窓の縁に片肘をつく。
ぼんやりとガラスの向こうを眺める姿を視界の端に映しながら、秋山は椿門インターチェンジの料金所を通過をした。
高速道路に目立った混雑はなかった。
凡そ予定通り、二十分ほど車を走らせたところで空港が見えてくる。
秋山は案内表示に従い、初めて国際線ターミナルの方向にハンドルを切った。
「お土産、何がいい?」
不意に声を掛けられ、秋山は横目でちらりとナマエを窺った。
ナマエはジャケットの袖を少しずらして、腕時計に視線を落としている。
それは、秋山が贈った腕時計だった。
正確には、秋山が投げ捨てたものをナマエが拾って来てくれたという、不本意かつ申し訳ない経緯でのプレゼントになってしまったのだが、それ以来ナマエはこの腕時計を大事にしてくれている。
仕事中も、私事で出掛ける時も、ナマエの手首にはいつもこの腕時計があった。
秋山がそうして欲しいと強請ったわけではない。
そういう下心を込めてのプレゼントではあったが、言葉にして頼んだことはなかった。
だがナマエは、秋山の想いを汲み取ってくれたのか、それとも純粋に腕時計を気に入ってくれたのか、支度の最後に必ず手首に嵌めてくれる。
秋山には、それが堪らなく嬉しかった。
「貴女の他には何もいりませんから、一秒でも早く帰って来て下さい」
文字盤から顔を上げたナマエの視線が、秋山に向けられる。
「……ん、りょーかい」
視界の片隅で、ナマエが笑った。
発着ターミナルの車寄せでブレーキを掛け、秋山は車を停めた。
本当はきちんと駐車場に駐めて出国審査前まで見送りたかったのだが、ナマエに必要ないと言われたのだ。
車が停止すると共に、ナマエがシートベルトを外す。
「助かった、ありがと」
「いえ……」
ナマエはあっさりと車を降り、後部座席から荷物を取り出した。
斜め後ろで、バタンとドアが閉まる。
秋山は、パワーウィンドウ越しにナマエの姿を見つめた。
予定通りにいっても、二週間。
絶対に長引かないとも限らない。
ホワイトデーは疎か、交際一周年の記念日も共に過ごせないかもしれない。
勿論、ナマエはそんなことを覚えていたりはしないのだろうが。
胸の奥が締まるような痛みに、秋山は唇を噛んだ。
笑え、と自らに言い聞かせる。
昨夜、我儘を散々聞いてもらったのだ。
詮無いことを言って、困らせたのだ。
最後は、笑って見送りたい。
荷物を肩に掛けたナマエが、開きっ放しになっていた助手席のドアから顔を覗かせた。
秋山は口角を上げ、精一杯の笑みを浮かべる。
「気を付けて行って来て下さ、」
普段通りの口調を意識して差し出した見送りの言葉は、しかしナマエによって遮られた。
唇に触れた、柔らかな温もり。
目を閉じる間もなく離れていった感触を視線で追えば、助手席のシートに片手をついて身を乗り出したナマエが、至近距離で秋山を見つめていた。
「行ってきます」
呆然とする秋山の前で、ナマエが当たり前のように言葉を紡ぐ。
行ってきます、行ってらっしゃい、のキス。
まるで新婚夫婦のようなこの行為が交わされたのは、初めてだった。
確かに、キスは数え切れないほどしている。
昨夜だって、何度も唇を重ねた。
だが、こんなシチュエーションは初めてで、秋山は頬に熱が集まっていくことを自覚する。
「……い、ってらっしゃい……」
まるで言葉を覚えたての幼子みたいに辿々しく、秋山は辛うじて返事を呟いた。
それを聞き届けたナマエが、唇を緩めて笑う。
ナマエがシートを軽く押して上体を引き、軽やかな手つきでドアを閉めた。
そのまま踵を返して歩き出したナマエの背を、秋山はガラス越しに見送る。
指先で恐る恐る触れた唇に、まだ感触が残っていた。
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