優しい毒を飲み干した[1]
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銀色の鍵を回し、ドアノブを捻る。
大した重みもないドアを引き開ければ、隙間からふわりと味噌の匂いが漂ってきた。
味噌汁か、何かの味噌炒めか。
恐らく前者だろう。
そんなことを考えながらドアを閉めた。

「おかえりなさい、ナマエさん」

鍵を掛けてから振り向くと同時に、キッチンから秋山が顔を覗かせる。
そのまま短い廊下を歩いて来る秋山の表情は、それはもう、ちょっとナマエが引くくらいにいい笑顔だった。

「……ん、ただいま」

少しだけ、何と返すべきだろうかと言葉選びに迷った。
部屋に、つまり自分の住居に戻って「ただいま」と言うのは、果たして何年ぶりだろうか。
すぐには思い出せなかった。
そういえばそうだった。
「おかえり」と言われて「ただいま」と返すのだ。
学生時代、まだ実家に住んでいた頃は当たり前だったはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。

「今日もお疲れ様でした」

嬉しそうに笑う秋山を見ていると、飼い主を出迎える犬というのはこんな感じなのだろうか、と想像してしまう。
ぴんと立った耳と左右に揺れる尻尾が見えるようで、ナマエはついつい苦笑してしまった。
秋山が以前、日高のことを大型犬に喩えていたが、ナマエからしてみると秋山の方がよっぽど犬のようだ。
ブーツから両足を解放し、秋山のスエード靴の隣に揃えた。

「今食事を温め直しますから、少し待っていて下さいね」

秋山がそう言い残し、キッチンに消える。
実は、残業のせいで部屋に戻って来るのが予定より一時間ほど遅くなったのだが、秋山は何も言わなかった。

今度の非番の日に夕食を作って待っていてもいいですか、と秋山に訊ねられたのは、確か先週のことだった。
出来に自信のない報告書を伏見に提出する際の日高並みに緊張した面持ちで話し掛けて来た時は何事かと思ったが、聞いてみればそんな些細なことで、ナマエは構わないけど、と了承した。
その秋山の非番が、今日だったというわけである。

クローゼットを開け、取り出したハンガーに制服の上着とベストを掛けて吊るす。
直置きした衣装ケースからカットソーと細身のスウェットパンツを取り出し、ベッドの上に投げた。
ワイシャツのボタンを上から順に外し、袖から腕を抜く。
脱いだシャツを適当に床に落とし、ベッドの上に置いたカットソーに手を伸ばしかけたところで不意に背後から名前を呼ばれた。

「ナマエさん、冷奴の薬味なん、ーーーっ」

かつんっ、と。
秋山の声を遮るように、何かが落ちた音。

「す……っ、すみませんごめんなさいっ!」

不審に思い振り返れば、秋山がまるで風のようにキッチンに駆け戻った残像だけが見えた。
残されたのは、床にぽつんと落とされたお玉が一つ。

「………は?」

何事だ、とナマエは首を傾げた。
とりあえず、落下音の正体がこのお玉だということは分かったが、秋山の挙動が不審すぎる。

「秋山?」
「すみません何も見てませんからっ!」

思い切り上擦った声で叫ばれ、その典型的な言い訳にようやく一連の流れに含まれた意味を悟った。
もはや苦笑しか浮かばない。
ナマエは手に取ったカットソーを広げて頭から被り、袖に腕を通しながらくつりと笑った。
二十代も半ばを過ぎた男が、女の半裸、しかも下着はつけている状態の背中を見てこうも取り乱すものだろうか。
秋山にだって、海水浴場やプールで女の水着姿くらい見たことがあるだろうし、過去に恋人だっていたはずだ。
制服のベルトを外してスラックスを脱ぎ、ルームウェアのロングパンツに着替える。
靴下を脱ぎ、ワイシャツと一緒に纏めて抱えると、途中でお玉を拾ってからキッチンに足を運んだ。

「秋山、」

両手で顔を覆い、冷蔵庫に背中を預けてしゃがみ込んでいる秋山に声を掛ける。
恐る恐る上げられた顔は、燃えるように真っ赤だった。
はい、とお玉を差し出すと、震える手がそれを受け取る。

「……す、みません……」

下手に言葉を掛けても逆効果かと、ナマエはラバトリーに行ってワイシャツと靴下を取っ手のついたバスケットに投げ入れた。
部屋に戻る途中でちらりと視線を流したキッチンでは、ようやく立ち直ったのか秋山が鍋に入った味噌汁を温め直している。
声は掛けず、ナマエはその横を通り過ぎた。

ベッドを背凭れにしばらくタンマツを弄っていると、両手に皿を持った秋山が部屋に入って来る。
その頬にはまだ赤みが残っていた。
部屋とキッチンとを三往復して秋山がテーブルを整える間、視線が一度も交わらない。
これは自分が悪かったのだろうかと、ナマエは首を捻った。
今度から、秋山が部屋にいる時はトイレで着替えた方が良いのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、ローテーブルに夕食が揃った。
白米と味噌汁、冷奴、メインは豚肉と野菜の炒め物。

「……冷奴の薬味、ネギと生姜で良かったですか?」
「うん」

なるほど、先ほど聞きかけたのはそれだったらしい。
今後、頻繁に秋山が夕食を作ってくれるようになったとしても、しばらくは食卓に冷奴は並ばないだろうな、と思った。

「お口に合うといいんですが……」

自信なさげな様子の秋山に促され、両手を揃える。

「いただきます」

まずは味噌汁から口をつけた。
熱すぎず、かといって温くもない。
若干濃い気がしなくもないが、十分に許容範囲内の塩梅だ。
肉野菜炒めも、大味ではあるが火の通りは丁度良い。

「うん、美味しい」

一通りの料理に箸をつけたナマエが感想を口にするまで、秋山は箸すら持たずにずっとナマエを見つめていた。

「本当ですか?」
「ここで嘘つく必要ないでしょ」

美味しいよ、と繰り返してみせれば、秋山の表情がぱっと明るくなる。

「よかった……」

半分溜息のように零された声は、心底安堵したとばかりだった。
秋山は、一体どのような反応を想像していたのか。
仮に不味かったとしても、ナマエは感想を聞かれれば素直にそう答えただろうが、それで怒ったりはしないというのに。

「大丈夫だから、秋山も食べな」

作った本人に食事を勧めるという不可解な状況に陥りながら、ナマエは冷奴を箸で割った。







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