その笑みに赦されたならば[4]「ねえ、秋山ぁ」
もう帰った方がいいのか、それともここにいるべきなのか逡巡していると、不意に呼びかけられる。
「はい」
ちょいちょい、とナマエに手招きされ、秋山は素直に近付いた。
一歩、二歩、三歩で、ナマエの目の前に立つ。
すると、真っ直ぐに秋山を見上げたナマエが、素早く秋山の手首を掴んだ。
「っ、ミョウジさん……?」
急な接触に驚く秋山が見下ろした視線の先、ナマエの右手が秋山の左手首を握っている。
ナマエの方が体温が低いのか、手首に感じる温度は少し冷たかった。
手首から、脈拍の速さを悟られてしまうのではないだろうか。
秋山がそんな余計な心配をしていると、ナマエが少し眉を顰めた。
「どうかしましたか?」
いつもとは様子の異なるナマエに、秋山はいよいよ心配を募らせる。
頼りないのは十分に承知しているが、それでも少しくらい背負う荷物を分けてくれればいいのに、と秋山がナマエを見つめていると、不意にその双眸が緩んだ。
「ちょっとね、お願いがあるんだけど?」
「お願い、ですか」
いよいよ珍しい状況に、秋山は首を傾げる。
「そ、お願い。聞いてくれる?」
「ええと、それは、どのような?」
「それは機密事項ってことで」
「……俺がそれを叶える、と言ったら内容を教えてもらえる、ってことですね?」
浮かべられた笑みは肯定だった。
ナマエにしては珍しいタイプの遊びに、秋山は戸惑う。
しかしすぐに、これがゲームに見せかけた何かナマエにとっては重要なことなのだろうと思い至った。
冗談の中に、本気が混ぜられているのだ。
それならば、迷う余地などあるはずもなかった。
「分かりました、聞かせて下さい」
「いいんだ?」
厄介な案件丸投げかもしれないよ、とナマエが笑う。
秋山は、それに関しては可能性がゼロだと分かっていた。
「構いませんよ」
そう答え、秋山はナマエの前に膝をついた。
その拍子に緩んだナマエの五指から手首を抜き、反対にその手を握り締める。
今度は見上げる形で、ナマエの目を真っ直ぐに見つめた。
「それが、本当に貴女の望みなら。俺は必ず叶えますよ」
たとえそれが、どんな無理難題でも。
たとえそれが、別れ話であったとしても。
ナマエが望むならば、秋山は自らが何だって出来ることを知っていた。
「……ね、あきやま、」
柔らかな、ともすれば甘えたような声遣で呼ばれ、胸臆が震える。
はい、と返す声が少しばかり掠れた。
「いっしょにねて」
ナマエの唇の動きが、秋山の目にはまるでスローモーションのように映る。
入ってきた音を変換するのに、数秒の時間を要した。
「…………えっ?!」
そして理解した瞬間、秋山は弾かれたように立ち上がった。
はくはくと口を開閉させ、爆弾を投げ込んできたナマエを見下ろす。
そんな秋山をきょとんと見上げたナマエが、次の瞬間ふっと柔らかく吹き出した。
顔中に熱を集めた秋山は、部屋が暗くて良かったと場違いなことを考えながら、愉しげに笑うナマエを視界に収めて嘆息する。
完全に弄ばれた。
それを恥ずかしく、情けなく、そして不満に思う気持ちも僅かにあるのに、笑っているナマエを見ていると全てどうでもよくなってしまうのだからタチが悪い。
ナマエの機嫌が少しでも良くなったならば生贄になるのも吝かではないと思えてしまう辺り、秋山はつくづくナマエに弱いのだろう。
何の打算も含まない様子で笑うナマエを見つめ、秋山も苦笑した。
「あーー、笑った笑った。すんごい反応だったねえ」
一頻り笑い終えたナマエが、大袈裟に涙を拭う仕草を見せる。
「仕方がないでしょう。あんなことを言う貴女がいけないんですよ」
秋山はつい憮然と反論してしまい、言下に叩き付けられるであろう倍返しを待った。
しかしナマエは何も言わず、ゆるりと目を細める。
「……ナマエさん?」
あれ、と首を傾げた秋山の視線の先。
ナマエが、穏やかに笑った。
「さっきの秋山、かっこよかったよ」
一瞬の間。
そして次の拍子に、秋山の顔が暗がりでも見逃せないほど真っ赤に染まった。
「な、……あ、ーーえ、……えっ?」
終いには単音しか紡げなくなった秋山は、あたふたと盛大に慌てる。
格好良い。
ナマエにそんなことを言われたのは初めてだった。
そもそもナマエは、こんな風に直接的な言葉で他人を褒めることがあまりない。
それだけに、衝撃は大きかった。
嬉しいのか恥ずかしいのか、情けないのか幸せなのか。
入り乱れる感情に揺さぶられ、秋山は途方に暮れて両手に顔を埋める。
落ち着け、落ち着け、と何度も心の中で念仏のように唱えた。
やがて、ようやく胸骨を殴打していた鼓動が落ち着きを見せたところで顔を上げると、先ほどまでベッドの縁に腰掛けていたナマエが、いつの間にか布団の中に潜り込んでいた。
「ん、」
短い音と共に、掛け布団が斜め半分捲られる。
その時になって初めて、秋山はナマエが先刻寝ていた位置よりもさらに奥で寝転んでいることに気付いた。
「え………?」
半分空けられたベッド。
捲られた布団。
「秋山?」
見上げてくるナマエの視線に、秋山は固まった。
「……あの、本当に……?」
ようやく絞り出した声が、みっともなく掠れる。
冗談だと、思っていたのだ。
ナマエが盛大に笑うから、ただ揶揄われただけだと思っていたのに。
「お願い、聞いてくれるんでしょ?男に二言はなし」
本気、だったのか。
秋山は戸惑い、前にも後ろにも進めず立ち竦む。
そんな秋山を見上げて、ナマエは困ったように苦笑した。
「……きて、あきやま」
それは、あまりに甘美な響きを以て、秋山の鼓膜を揺らした。
脳髄が溶けてしまうような、甘やかな誘い。
秋山は殆ど無意識のうちに最後の距離を詰め、ナマエの隣に身体を倒した。
心臓が痛いほどに脈打っている。
すぐ目の前にナマエの顔があって、少し首を伸ばすだけで唇を奪えてしまいそうだった。
「ありがと、秋山。これでいい夢見れそう」
あ、と思った時には、脳内で点と点が繋がっていく。
夢見が悪かった、という言い訳は、強ち嘘ではなかったのかもしれない。
素直な、嬉しそうな笑みを見せられ、秋山はつられて微笑んだ。
「おやすみ」
すっと花瞼を下ろしたナマエを、秋山は幸せなのに泣きたいような、そんな矛盾した心地で見つめた。
「……おやすみなさい、ナマエさん」
どうか、いい夢を。
秋山は祈るような想いで、ナマエが顔の横に投げ出した左手の指先に口付けた。
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