差し出された幸せ[1]
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秋山には、自分の中で定めたルールが二つある。

まず、ひとつめ。
夜にナマエの部屋を訪ねる場合、互いのシフトがその日は早番、中番もしくは非番の何れかであり、かつ翌日のシフトが早番ではないこと。
セプター4はいくら変則シフトといえども、出来る限り隊員の負担が軽減されるよう、同じローテーションがある程度連続するようになっている。
そのため、秋山の定めた条件を満たす日が数日間続くこともあれば、半月以上条件に合う日が存在しないこともある。
年単位で計算し平均化するならば、条件を満たすのは四日に一度くらいの頻度だ。
そして、ふたつめ。
条件をクリアした場合、事前に必ずナマエに訪問の許可を取ること。
大抵その日の朝か、または昼の休憩時間にメールを送る。
するとナマエが短い返信をくれる。
今のところ、ナマエが残業等職務上の理由以外で秋山の訪問を拒絶したことはない。

正直に白状するならば、秋山としては到底物足りない頻度だった。
確かに、執務としてはほぼ毎日顔を合わせる。
だが、ナマエが一切の公私混同をしないため、顔を合わせるといっても会話はさほど多くないし、どれも職務上のものばかりだ。
プライベートな時間、つまり名前を呼んで、他愛のない話をして、ナマエに触れる時間がもっと欲しかった。
毎日でも、会いに行きたい。
いっそ着替えと日用品をナマエの部屋に持ち込んで一緒に住んでしまいたいと思うくらい、秋山はナマエと共にいたい。
だが、ナマエの部屋に歯ブラシ一本置いておけないのは、図々しいと思われたくないからだ。
毎日訪れることで、鬱陶しいと思われたくないからだ。

秋山が思うに、ナマエは一人の時間を大切にするタイプだ。
軍にいた頃から、その傾向が強いように思っていた。
十代の頃から軍隊に身を置いていたナマエは、秋山や弁財などよりも余程他人の気配や動向に対し敏感で、常に気を張り巡らす癖が身体に染み付いている。
恐らくは、他人が同じ空間にいると例え寝転んでいたとしても神経が休まらないのだろう。
直接そうだと言われたことはないが、ナマエの雰囲気や態度から、秋山はそう推察した。
ならば、秋山が常に側にいることは、きっとナマエにとっては迷惑なことだ。
シフトに比較的余裕があるタイミングを狙っているのも、秋山の体力の問題ではなくナマエの負担を軽減したいからである。
そもそも、秋山が部屋を訪ねなければナマエにとっては最も楽なのではないか、という秋山の配慮を根底から覆す真理については、必死で顔を背けた。

そうして許された数少ない逢瀬は、秋山にとっていつもまるで夢のような時間だった。
寒い冬の日に柔らかなカシミアの毛布に包まれるような、そんな幸福感がある。
もちろん、緊張はする。
ナマエの一挙一動に気を遣い、無頓着に落とされた言葉に胸を抉られることもある。
だがそれらは、ナマエが仕事中では決してあり得ない柔らかな笑みを見せてくれた瞬間に霧散する。
秋山、といつもより少し気の抜けた声で名前を呼んで、無造作に頭を撫でて、抱き締めることを許してくれる。
それだけで、秋山は天にも昇る心地だった。

想像するだけで頬の緩みが抑えられないなんて、変態染みているだろうか。
秋山は思わず顔の下半分を手で覆い隠しながら、足早に女子寮の廊下を歩いた。
男性隊員の立ち入りを禁じているわけではないが、そう易々と足を踏み入れるべきではない、という暗黙の了解はあるため、ナマエの部屋に辿り着くまでの数十秒はいつも緊張する。
目当てのドアの前で、秋山は軽く息を吸い込んでから軽く握った手を持ち上げた。
ナマエはいつも、秋山が訪ねる日には事前に鍵を開けておいてくれる。
なのでこのノックは、今から開けますよ、という合図に過ぎない。
秋山にとっては、たとえ相手が恋人であろうとも欠かすことの出来ないエチケットだった。
ノックをして、三秒待ってからドアノブを捻る。
ドアを開けた途端、ふわりと漂う料理の匂いが幸せすぎて眩暈を起こしそうだった。
この匂いは、照り焼きか何かだろうか。
仕事終わり、空腹を訴えていた腹の虫が秋山本人の代わりにきゅう、と鳴いた。

「お邪魔します」

音を立てないように、ドアを閉め施錠する。

「お疲れー」

キッチンから聞こえてきた声に、秋山は脱いだ靴を揃えながら口元を緩めた。
ナマエにとってはきっと何てことのない、誰に対しても告げる半ば口癖のような労いの言葉だろう。
その言葉一つで、迎え入れられていることを実感する秋山がどれほど嬉しいのかなんて、きっとナマエは知らないのだ。

「お疲れ様です」

この、オンとオフの狭間のような瞬間、秋山はいつも何と言えばいいのか迷ってしまう。
結局社会人として無難な言葉を返しながら、キッチンを覗き込んだ。

「いいね秋山、タイミング完璧」

フライパン片手に振り向いたナマエが、楽しげに笑う。
振り向きざまの笑顔があまりに綺麗で、秋山は見惚れた。
Tシャツとスキニーパンツ、無造作に頭の後ろで団子にされた黒髪と、首筋に垂れる後れ毛。
多分それはナマエにとって、何てことのない日常の、特に何も意識していない普通の格好なのだと思う。
実際秋山にとっても、この部屋で見るナマエの姿としては一番見慣れた格好だ。
だがその普通を、その日常を見せてくれることが、堪らなく嬉しかった。

「何か手伝いますか?」
「ん、冷蔵庫にサラダあるから運んで」

容赦なく馬鹿にされそうだから言わないけれど、こんな些細なやり取りがまるで夫婦のようで。
キッチン、冷蔵庫、出来上がった食事。
完全なるプライベートに触れさせてくれることを、そこに踏み込むことを許されることを、幸せに思った。
以前は水と牛乳しか入っていなかったという冷蔵庫に、今は腐らせない程度の食品と調味料が並んでいる。
豆腐のサラダが、少し前にナマエが食堂のおばちゃんに頼んで貰った、と言ったボウルの中に盛り付けられていた。

何の予定もない非番の日にナマエがこうして夕食を作ってくれるようになってから、二ヶ月ほどが経った。
これで四回目だ。
ナマエが初めて食事を用意して待っていてくれた日のことを、秋山は今でも鮮明に覚えている。
ついでに言えば、あまりの衝撃と欣悦に感情が容量オーバーし、みっともないほど泣いたことも覚えている。
冷静になって思い返すと、あれはとんでもない大失態だった。
しかしそのくらい、言葉には出来ないほど嬉しかったのだ。
付き合って下さい、名前で呼んでも構いませんか、部屋に行っても大丈夫ですか。
これまでずっと、二人の関係は秋山の懇願で成り立っていた。
拒絶をしないナマエは、その代わり能動的に動くこともなかった。
それが寂しくなかったと言えば嘘になるが、しかしそれで当たり前だと思っていたし、不満などという烏滸がましい思いを抱いたことはなかった。
ナマエが受け入れてくれる、それだけで秋山にとっては十分すぎる優遇だったのだ。
だから当然、食事を作ってほしいだなんて身の程知らずな頼みをしたことはなかったのに。
ナマエはなぜか、夕食を用意して出迎えてくれた。
暇を持て余したのか、ほんの気紛れか、理由は知らない。
たまたまスーパーに行ったら鯖が安かったとか、そんな理由かもしれない。
だが、例えどんな些細な理由であったとしても、秋山には堪らなく嬉しいことだった。

初めてナマエの手料理を食べさせてもらった日、夢中で頬張った食事の後、冷静になった秋山は幸福から一転、考え至った可能性に怯えた。
もしかしたら、この食事は別れ話の前の餞別だったのではないだろうか、と。
そんなことを想像してしまうくらいに、ナマエの手料理は秋山にとって想定外だったのだ。
実際には秋山のただの取り越し苦労で、それ以降もナマエはこうして何度も食事を振る舞ってくれる。
以前は職務中に顔を見られなくて寂しかったナマエの非番は、秋山にとって一つの楽しみに変わった。



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