君がそれなりに幸せでありますように[1]
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ずーん、というオノマトペを背後に背負った同居人を見て、弁財酉次郎はうんざりと溜息を吐き出した。
温厚、柔和、穏和。
誰に聞いても、秋山氷杜という男の印象は似たようなものだ。
国防軍時代からのそれなりに長い付き合いとなる弁財も、そこに異論を差し挟むつもりはない。
確かに秋山の性格は温厚で、そこまで感情を表に出すこともなければ我が強すぎるということもない。

基本的には、な。

弁財は、秋山が感情のコントロールを失う唯一の要因を嫌というほど知っている。
ミョウジナマエ。
普段は冷静で穏和で理知的な秋山が、誰何を問い質したくなるほどの豹変ぶりを晒す原因となる人である。
ナマエは、弁財と秋山が国防軍に所属していた際の上官であり、今では特務隊の同僚だ。
弁財も、もちろんナマエのことは心から尊敬し慕っているし、世話になっていることも十分に理解しているので感謝の念は尽きない。
が、秋山のナマエに対する意識は弁財のそれと比べるべくもないほどに常軌を逸していた。
敬愛を通り越して、もはや崇拝。
ナマエとの出会いは、間違いなく秋山の人生を変えた。


「おい秋山、メシ、行かないのか?」

退勤後、部屋に戻ったきり制服も脱がずに膝を抱えた秋山に、いい加減痺れを切らして声を掛ける。
忙しくて昼食をとり損ねた弁財は腹が減っていた。
空腹のせいで若干苛立っているというのに、その上同い年の、しかも男がでかい図体を縮めていじける姿など願い下げだ。

「……弁財、行ってきていいよ……俺はいい……」

蚊の鳴くような声で返ってきた返答に、弁財はいよいよ呆れる。
膝に顔を埋めた秋山の頭に、拳骨を一つ見舞いたい気分だった。

「お前なあ……そんなに落ち込まなくてもいいだろうが」

それが無理な相談だということくらい、口にした弁財が一番良く分かっていた。
秋山は、ことナマエが関わった場合にのみ、どうしようもない男に成り下がる。
それをここ数年、弁財は否応なしにずっと側で見続けてきたのだ。
今さら何があったところでそう簡単に驚かない程度には、秋山の普段とはかけ離れた姿に慣れたつもりだった。

色々なことがあったな、と弁財は過去を振り返る。
最初は、弁財がやたらとナマエの方を気にする秋山に気付いたところから始まった。
そう日を置かぬうちに、秋山がナマエに惚れたのだと察した。
数日後には秋山自身からもそう告白されたので、見ていれば分かると返したら、秋山はどこの乙女だと突っ込みたくなるほど顔を真っ赤にして俯いた。
それ以降、今日は話すことが出来ただの、褒められただの、弁財が聞いてもいないようなことを興奮気味に報告してくるようになり。
かと思えば、ナマエから叱責を受けてこの世の終わりとばかりに落ち込む秋山を慰める羽目にも陥ったりした。
そんなことを何度も何度も繰り返して、そして今から数ヶ月前。
部屋で風呂上がりのビールを飲んでいた弁財の元に、早番の後に隊員の何人かと飲みに行っていた秋山が泣きながら帰って来た。
原因を訊ねると、秋山はナマエに告白したと言う。
酒の力とは恐ろしい。
それだけでも十分な驚きだったのに、付き合うことになったと報告され、弁財は耳を疑った。
秋山には悪いが、弁財はナマエが秋山に気があるとは到底思えなかったのだ。
どうしよう弁財、と、弁財がうんざりして拳骨を落とすまで泣き続けた秋山自身、それは薄々感付いているようだった。
実際、その後、シフトが重なるタイミングで夜にナマエを訪ねるため部屋を出て行く秋山は、いつもどこか強張った顔をしていた。
とても、恋人との逢瀬を楽しみに思う男の表情ではない。
緊張する、というだけならまだ分かった。
相手は年上で、元上官で、秋山が恋い焦がれ続けた人だ。
恋人になったといってもすぐには慣れないだろうし、気を遣うこともあるだろう。
だが秋山は、それ以上に何かを堪えるかのような顔をしていた。

秋山氷杜という男は、弁財にとって、本人に面と向かって言うことはこの先も絶対にあり得ないが、最高の相棒だ。
何の躊躇もなく命を預けられる相手など、人生で一人出会えるか否かという貴重な存在だろう。
弁財にとって、秋山こそがそれである。
そして秋山にとって自分がそうであることも、弁財は理解していた。
互いの背を、文字通り預け合って戦ってきた。
この先もそうであると、確信している。
プライベートも含め、四六時中一緒に過ごしてきた。
意図してそうしたわけではないが、軍にいた頃からずっと同室なので、共にいることが当たり前になってしまった。
もちろん、時々腹が立ったり、八つ当たりをしたり、されたり、そんな些細な喧嘩はする。
だが、それでも結局ずっと同じ部屋で問題なく過ごせているあたり、相性は良いのだろう。
基本的な思考回路が似ていて、気兼ねなく言いたいことが言え、遠慮することもされることもない。
相棒、親友、もはや兄弟と呼んでも違和感がないような、そんな存在。
だから弁財は、言葉にこそしないものの、秋山には人並みの幸せを掴んでほしかった。

しかしその秋山は弁財の心配を他所に、これでいいんだ、と微笑むばかりだった。
ミョウジさんは俺のことが好きなわけじゃない。
ただ、俺がお願いしたから付き合ってくれているだけだ、と。
秋山はそう言って、それで十分なのだと泣きそうな顔で苦笑した。
恐らく秋山の言ったことは、事実だったのだろう。
弁財から見ても、ナマエが秋山に情を傾ける様子はなかった。
秋山を嫌ってはいないと思う。
同僚として、信用しているようにも見える。
だが、秋山を男として好きだと思っているようには見えなかった。
だからと言って、秋山本人がそれでいいと言う以上、弁財に口を出す権利はない。
ただ、お門違いだと分かってはいても、少しだけナマエのことを恨んだ。
ひどい人だ、と思った。

しかしある時、秋山を取り巻く状況が突然改善された。
常にも増して泣きそうな顔で出て行った秋山が、翌朝、弁財がドン引きするほどの泣いた形跡と、相反するふわふわとした花畑ような空気を纏って帰って来た。
そして話を聞くべきか否か悩む弁財がその答えを出し終える前に、秋山は幸せそうに言ったのだ。
初めて好きだと言ってもらえた、と。
まるで初恋を成就させた少女のように、秋山は笑った。
男として、心底気持ちの悪い笑顔だった。
だが弁財も、つられて笑った。
二人の間で、主にナマエの中でどういう心境の変化があったのか、弁財は知らない。
恐らく、秋山も良く分かってはいなかったのだろう。
だがそれ以降秋山は、相変わらずの緊張感は孕みつつも、嬉しそうに部屋を出て行くようになった。
帰って来るのも夜中ではなく、翌朝のことが多くなった。
それはもう締まりのない顔で、聞いてもいない弁財にナマエとのことを報告してくる。
いつもそれを半分以上聞き流しながら、しかし弁財は、相棒の幸せそうな様子を見て確かに満足していた。



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