そこに君がいないから「母さん、行って来ます」
宗像は、そう言った己の声が常よりも浮ついていることを自覚しないわけにはいかなかった。
キッチンで水仕事をしていた母が、少し驚いた様子で顔を上げる。
それはそうだろう、と宗像は思った。
「あら、もう行くの?」
普段宗像は、朝食の後に茶を点てて一服をしてから登校している。
今日はそれをしなかったため、宗像の支度はいつもより優に三十分以上早かった。
「ええ、少しやることがあるので」
「そう、行ってらっしゃい」
しかし、今更高校生にもなった息子の登校時間についていちいち追及するような親ではない。
いつも通りの笑みに見送られ、宗像は自宅を後にした。
外は曇り空で、この時期にしてはかなり肌寒い。
空気が湿っており、今にも雨が降り出しそうな気配だった。
しかしそんな天候も、今の宗像には何一つ影響を及ぼさない。
二年次に上がる始業式の朝、宗像は通い慣れた通学路を足早に歩いた。
宗像の自宅から学校までは、徒歩で約二十分。
電車だと一駅分に相当するが、歩くことが嫌いではない宗像はいつも徒歩で通学している。
街路樹の桜は一昨日の雨ですっかり花を散らせてしまい、寂しい様相を呈していた。
風流を好む宗像は、去年までならばそれを残念に思ったかもしれない。
だが今日は、濡れたアスファルトに散った花弁に何を思うこともなかった。
これもまた初めての感覚だ、と宗像は考える。
経験があまりないので正確には分からないが、緊張とも興奮とも異なる気がする。
恐らく、言葉にするならば期待なのだろう。
しかし、それ以上の不安もある。
不自然なリズムで刻まれる鼓動は、宗像にとって非常に奇妙だった。
自らを客観視してみると、これはなかなかに面白い。
そして、普通の人はどんな時にこのような感覚を持て余すのか、考察してみた。
少なくとも、始業式の朝という状況を宗像のように受け止める人はあまりいないだろう。
宗像とて、かつてはこのような思いで学校に向かったりはしなかった。
去年の入学式も特別な思い入れはなく、淡々と過ぎていく日々の一日に過ぎなかった。
所感を述べろと言われても、特になしの一言だ。
宗像は決して学校が嫌いなわけではない。
教師の説明から矛盾点や誤りを探し出すのはそれなりに楽しいし、同級生を眺めて人間観察に勤しむのも面白い。
だからといって、入学式や始業式に浮かれるほど好きかと問われればそれも否だった。
しかしそれは、去年の今頃までの話だ。
今年の始業式、正確には始業式の日の朝は、宗像にとって特別な意味を持っていた。
学校に着くと宗像の予想通り、生徒の姿は殆どなかった。
数名、恐らく始業式の準備がある生徒会役員が正面玄関の側にいるだけで、閑散としている。
宗像は校門を抜けると真っ直ぐに進み、玄関の前に大きな紙が何枚も張り出された掲示板に向かった。
これこそが、宗像の本日最大の目的である。
この学校の定則として、二年次から三年次へと上がる時、クラスはそのまま持ち上がりだ。
だが、一年次から二年次へと上がる進級の際にはクラス替えがある。
このクラス替えで、残り二年間を共に過ごすクラスメイトが決まるのだ。
宗像は別に、新しい担任にも約四十名のクラスメイトにもさしたる興味はない。
宗像にとって大切なのは、たった一つだけだった。
新しいクラス毎の名簿が張り出された掲示板の前に立ち、宗像はまず自分の名前を探した。
下から探した方が早いと分かっているので、まずは一組の下三分の一辺りに目を凝らす。
すると、すぐさま宗像礼司の名前を見つけることが出来た。
今年も変わらず一組らしい。
しかし宗像にとって重要なのは、思いの外早く見つかった自身のクラス番号ではない。
宗像は、そのまま一組の名簿を上から下まで視線で追った。
「……………」
そこに探している名前が見当たらず、宗像の胸の内でじわりと落胆が広がる。
結局視線を三往復させて舐めるように見つめても目当ての名前はなく、宗像はあまりの失望に大きく肩を落とした。
全身へとショックが広がり、ありとあらゆるところから力が抜けていくかのようだった。
これが、最初で最後のチャンスだったのだ。
昨年度までは教室が一組と六組という最も離れた位置にあり、最初の頃は廊下で顔を合わせることなどまずあり得なかった。
その六組のはずの周防はなぜか宗像の前に鬱陶しいほど頻繁に現れ、そのおかげでーーーとは言いたくないが、実際のところはそう言うしかないのだと宗像も理解はしているがーーーナマエの姿も良く見かけるようになったが、つまりそれは周防もセットで、ということだ。
宗像にとってそれは、大歓迎出来る状況ではない。
まさか二人きりで話せるはずもなく、ナマエが近くにいるというのに宗像は周防と喧嘩をしてばかりだった。
だから、期待していたのだ。
今年から同じクラスになることが出来れば、もっと話せるかもしれない、と。
実際、物理的な距離は格段に近付くのだ。
たとえそう頻繁に話すことは出来ずとも、教室でその姿を見る機会を得られるというだけで、宗像にとって同級生というのは価値のあるものだった。
しかし生憎、天は宗像に味方しなかったらしい。
宗像は伏せていた顔を上げ、今度は二組の名簿に視線をやった。
クラスメイトになる機会は逸してしまったが、隣のクラスならば合同授業などが重なる可能性も高い。
そう考え、五十音順でミョウジという苗字が並びそうな箇所に焦点を当てた。
しかし、二組にもナマエの名前はない。
宗像は、そのまま三組、四組と順に視線を流したが、そこまで来てもナマエの名前は見当たらなかった。
そしてようやく、五組の名簿の中にナマエの名前を見つける。
間違いなくミョウジナマエと書かれた文字を、宗像はぼんやりと眺めた。
昨年度より一クラス分近くなったが、実際のところ何も変わっていないようなものだ。
廊下で鉢合わせする距離ではないし、授業が重なることもない。
この先二年間のことを考え、宗像は溜息を吐き出した。
見ているだけで幸せな気持ちになれるような名前なのに、今この時ばかりは宗像の落ち込んだ気分をさらに下へ下へと誘っていく。
憂鬱な気分を振り払うべく天を仰ごうとした宗像は、しかしその瞬間視界の端に垣間見た名前に慌てて視線を名簿に戻した。
ナマエの名前しか見ていなかった、五組の名簿。
その同じ並びに、宗像が心底嫌いな男の名前があって愕然とした。
周防尊。
なぜ、どうして、またあの男が。
憤り、嫉妬、そして羨望。
様々な負の感情が、強烈な勢いで宗像の胸中を支配する。
宗像の脳裏に赤髪の野蛮な男とナマエが並ぶ、見慣れたくなどないのに見慣れてしまった光景が過ぎり、両手をぐっと握り締めた。
数十秒間、見なくもない名前を忌々しいとばかりに睨み付けた宗像は、やがて掲示板の側を離れて玄関へと歩き出した。
俯いたまま歩を進めれば、地面には雨に濡れて踏み付けられた薄桃色の花弁が無惨にへばりついている。
苛立ちなのか、寂しさなのか。
どこにぶつけるわけにもいかない煩悶を抱え、宗像は歩いた。
ここに立ち止まり、いずれ登校してくるであろうナマエを待とうかとも考えた。
だがナマエは恐らく、遅刻ギリギリの時間に周防を引きずってやって来て、名簿を見て「また同じクラスだね」と隣に立つ男に笑いかけるのだろう。
そんな姿を、宗像は決して見たくなかった。
全て分かっていて、その上まだ当分来ないことも知っていて、宗像は玄関に入る前に一度だけ振り返る。
当然といえば当然、その視線の先にナマエはおらず、登校してきた数名の生徒が掲示板の前で騒いでいるだけだった。
視界の端、花弁の散った裸の枝が曇天に向かって伸びている。
ああ、滑稽だ、と。
宗像は嘲笑った。
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