[9]溜息も涙も、我儘さえも
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「うわ………なんか、変なかんじ、です」

それがナマエの、初めて乗った電車に対する感想だった。
はしゃぐこともなく、おっかなびっくり宗像のコートを摘んだナマエを見て、宗像は苦笑した。

電車に乗って少し遠出してみよう、という宗像の提案が決行されたのは、年が明けてから少し経った頃だった。
遠出と言っても、実際はそう遠くない。
行き先は、電車で四十分の距離にある水族館だ。

ナマエの視力が回復してからというもの、宗像はナマエを連れて外出することが増えた。
もちろん慎重にナマエの精神状態と体力とを考慮し、無理のない範囲で少しずつ慣らしていった。
最初は家の近所の散歩から始まり、それに慣れれば次は最寄りのコンビニ、駅前のスーパー、車で海を見に行ったり、デパートで買い物をしたり。
そうやって、少しずつナマエに外の世界を見せた。
デパートで店員に声を掛けられ、驚いて咄嗟に宗像の背中に身を隠したナマエが超絶に可愛かったことは、宗像だけの秘密だ。
これまで施設と宗像の家しか知らなかったナマエは、新しい世界に戸惑い、怯えつつも、ゆっくりと馴染み始めた。

閉じ込めておきたい、という願望がなかったと言い切ってしまえば、嘘になる。
この家に閉じ込めて、誰にも会わせず、何にも触れさせず。
ずっと、宗像だけがナマエの世界を構築するという状況を、願わなかったとは言えない。
だが、それは出来なかった。
ナマエはまだ十七歳で、可能性は無限にあった。
今はまだ、ナマエの世界は宗像によって成り立っている。
だがそれは宗像が作り上げた状況であり、ナマエが自ら選んだことではない。
外の世界を見て、取捨選択した結果ではない。
そう分かっていた。

かといって、ナマエを外の世界に連れ出すことが不本意なわけでもなかった。
ナマエが文字や映像でしか知らなかった世界に実際に触れさせ、様々なものを共に見る時間は、宗像にとって非常に有意義かつ心踊るものだった。
一人で歩いていては気付けなかったこと、ナマエと共にいるからこそ見えるもの。
ナマエの手を引いてゆっくりと歩く街並みは、一人で見るよりもずっと美しかった。



「………すごい、いっぱいいる……」

巨大な水槽に張り付き、恐る恐るガラスを突くナマエは文句なしに可愛くて、宗像はこっそりタンマツを構える。
写真を撮られるのがどうにも苦手らしいナマエのせいで、宗像のタンマツには隠し撮りの写真ばかりが増えてしまった。
いつか真正面から笑顔の写真を撮れた時はそれをタンマツの壁紙に設定しようと、宗像は密かに誓っている。
まずは、笑ってもらえるようになるのが先決だ。

「ね、礼司さん、あれ、綺麗……」

ナマエの指が示す先を見やれば、淡い色の魚の群れがあった。
どうやら水族館はお気に召したらしい。
時折周囲の人に圧倒されたような仕草は見せるものの、比較的落ち着いて観賞を楽しんでいる様子だった。

「ナマエ、こっちも綺麗ですよ。小さいですね」
「……うん、」

宗像の手を握り、視線をきょろきょろと彷徨わせながら歩くナマエは、年齢よりもずっと幼く見える。
異能もストレインも関係ない、ただの少女そのものだった。
もちろんその脳は、水槽の下のパネルに掲載された魚の解説を一字一句違うことなく瞬時に記憶しているのだろうが。


「そこの可愛い女の子、クレープどうだい?」

併設されたフードコートに立ち寄ると、気前のいい店員が声を掛けてくる。
一拍置いてから自分が話しかけられたことに気付いたナマエが、宗像の腕にしがみ付くよう擦り寄り、戸惑った様子で宗像を見上げた。
宗像はもう、緩みそうになる口元を誤魔化すのに必死だ。

「一緒に食べましょうか」

こくり、とナマエが頷いたのを確認して、宗像は店員にその旨を告げた。

「チョコレートとバナナです、好きでしょう?」

初めて目にするクレープに戸惑いつつも、ナマエは宗像に促されて端の方を少し齧った。
口が小さい分、食べづらいのだろう。
四苦八苦しながら少しずつ食べ進めていく仕草は、小動物のようで可愛らしい。
溢れんばかりに包まれていた生クリームが、ナマエの唇の端につく。
宗像は無言でコートのポケットからタンマツを取り出した。
今日は出番が多い、とカメラを起動させたところで、不意にナマエが顔を上げた。

「……礼司さん、も」

差し出される、食べかけのクレープ。
見上げてくるナマエ。

「………ナマエ、少しそのままでいて下さい」

これはシャッターチャンスだと宗像がタンマツを掲げれば、その意図に気付いたナマエが即座に顔を顰めた。

「いやです」

素気無く一刀両断され、宗像は肩を落とす。
せっかくの可愛らしいポーズだったのに、とか、ナマエのあーんが、とか、ぶつぶつと文句を言う宗像に、ナマエは呆れて溜息を吐いた。

「……礼司さん。……はい、あー……ん?」

これでいいのだろうか、と不安げに、ナマエが手にしたクレープを宗像の口元に近付ける。
宗像は一瞬目を見開き、やがて蕩けるように笑った。



「……ね、礼司さん」

帰りの電車の中、疲れて眠くなったのだろう、ナマエはとろんとした目で隣に座る宗像に視線を寄せた。
その頭を引き寄せて自らの肩に凭れさせ、宗像は続きを促す。

「………わがまま、言ってもいい、ですか?」

その唇から漏れた言葉に、宗像は驚いた。
我儘、だなんて。
ナマエの口から聞いたことがなかった。

「もちろんです」

ナマエが望むことならば何でも、文字通り何でも叶えてやると、宗像は本気で考えた。
何をしたい、どれが欲しい。
ナマエはいつも、何も言わない。
何か願いを口にしようとするその姿勢だけで、宗像は幸福だった。

「……あのね、」

ゆっくりと紡がれる願いを、宗像は想像しながら待つ。
しかし耳に届いたのは、予想していたものとは全く異なる"わがまま"だった。

「……水族館、また……一緒に行きたい、です」

おずおずと、見上げてくる瞳。
ナマエが言葉を選びながら訴えてくる、その瞬間、胸を甘く締め付けらるのは、これで何度目だろうか。
そんなのは我儘でも何でもない、と言いかけて、宗像はやめた。
ナマエは遠慮しているのではなく、本心からそれを望んで宗像に強請っているのだ。
ならば、宗像に出来るのは、全力でそれに答えることだけだ。

「分かりました、ナマエ。また一緒に行くと、約束しましょう」

いいの、と見上げてくるナマエに、大きく頷いて返す。

「当然です。君は、君の我儘さえも全て、私のものでしょう?」

それを聞いて、ナマエは嬉しそうに目尻を下げた。
やがて瞼が落ちかけるのを見て、宗像はその耳元にそっと囁く。

「寝てしまいなさい。ここに、いますから」

ここは、家の中ではないけれど、傍にいる。
だから、何も怖くはない、と。
宗像がナマエの肩を抱き寄せれば、ナマエは小さく頷いて、やがて静かに眠りに落ちた。


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